九鬼周造という哲学者がいる。
母親のお腹にいる時に、母親が思想家の岡倉天心と不倫したり、
哲学者・サルトルから個人的にフランス語を習っていたりなど、
エピソードにことかかない人なのだが、
戦前の人だからなのか、僕の周りの先輩で、九鬼周造の話をしてくれる人はいなかった。
そもそも先輩と呼べるような人が、僕の周りにはいなかった。
だから、僕が周りに九鬼周造の話をすることも、
周りから、九鬼周造の名前を聞くこともなかった。
ただ、一度だけ、九鬼周造の名を口にした人を見たことがある。
中華料理屋でベロベロに酔った女性だった。
九鬼周造には「いきの構造」という著作がある。
「”粋(いき)”とは何か」を解明しようとした本で、
”いき”とは、「あんた、粋だねえ」の”いき”だ。
”いき”を説明するために、九鬼は、”いき”を立方体で表す。
「意気」と関係ある言葉を、立方体の角に配置し、
”いき”が他の言葉とどういう関係にあるかを、図で示す。
「野暮」「渋み」「上品」「地味」などとの関係を示すことで、
「意気」の立ち位置を浮かび上がらせる。
哲学の用語を、数学的図形で説明したことに、
大学生の僕は、びっくりした。
その九鬼周造の名を口にした女は、
横浜の汚い中華料理屋にいた。
油でベタついた椅子に僕が座ると、
隣で、ベロベロに酔った女が、男友達に愚痴を並べていた。
女は、恋人と別れたばかりらしく、別れた男への恨みを口にしていたが、
男友達は、ピータン豆腐を頬張りながら、適当に釘を刺していた。
「まあ、でも、なんだかんだ、あの子、ずっと〇〇(男)のこと好きだったし。
見てると、けなげだったしな」
「はっ!”けなげ”!?
”けなげ”ってなに?
”けなげ”ってなんなの!?
”けなげ”、九鬼周造みたいに、立方体で書いてみてよ!」
こんな汚い中華料理屋で九鬼周造の名前を聞くと思わなかったので、
僕は驚いたが、
”けなげ”を立方体で描くのはけっこう難しいなぁと、
頭の中で色んな言葉を思い浮かべた。
隣を見ると、
女は、酔ったままテーブルに突っ伏して、髪の毛を担々麺に浮かべていた。
”けなげ”な女はこんな姿、絶対に人に見せないだろうな。
この国で、”けなげを立方体で描け”という女が、
”けなげな女”に勝つことは、なかなか難しい。
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