友達ん家に遊びに行く。
「ねえ、帰り、DVD借りてこうよ」
「いいよ。なに見る?」
「えっとねー、楽しいやつ」
「気分がすかっとするやつ?」
「暗くないやつ」
「じゃあさ、無実の罪で投獄されちゃうんだけど、
ちょっとずつ穴ほって脱獄して、南の島に逃げて、
最後、友達の黒人のおっさんが訪ねてきてくれるやつにする?」
「それ、ショーシャンクでしょ。一緒に見たじゃん」
「じゃあさ、息子と一緒にユダヤ人収容所にいれられるんだけど、
『これはゲームだ』って演技し通して息子を助けるんだけど、
自分は最後撃たれちゃうやつは?」
「ライフイズビューティフルでしょ。見たよ」
「じゃあさ、目の見えないジャズマンがさ・・・」
「ってか、最後の結末言っちゃわないで。
結末言ったら、見ても、つまんないでしょ」
「でも、だいたい映画って、
見る前にだいたいの結末わかってるもんじゃない・・・?」
確かに、映画は見る前に、だいたいのあらすじがわかっている。
結末は知らなくても、大筋はつかんでいる。
それでも映画を見るのは、
映画が「ストーリー」だけを追うものではないからだ。
楽しんでいるのは「筋」だけではない。
「じゃあ、これにしよう」
ツタヤでDVDを決める。
「なにそれ?『思い出のマーニー』?」
「主人公がマーニーと出会って成長して別れる話」
「それは、多分、マーニーと主人公には特別な関係があるって話だね」
「これは、多分、マーニーは最後いなくなるけど、心の中では生きてるって話だ」
僕たちは、あらすじをわかっていても、映画を見る。
わかっていても、見る。
その時、映画はコミュニケーションツール。
見終わった後、二人で「あーだこーだ」言うための、コミュニケーションツール。
その時、二人が求めているのは、
「感動する作品」じゃなくて、
「あーだこーだ言える作品」なのだろうな。
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