「原付」に乗って冬の藤沢を走っていた学生の頃、
首に巻くマフラーが欲しかったのだけど、お金がなかったので、
マフラーの代わりにパーカーを首に巻いていた。
それを見たほとんどの友人は
「マフラー持ってないの?(=マフラー買えよ)」と言ってきたけど、
ある友人だけは「それ、ブリコラージュだね」と言った。
ブリコラージュというのは、身近な物を組み合わせたり、
本来の用途とは異なる使い方をすることで、新しいものを作り出すという意味の言葉で、
つまりは、パーカーを首に巻いていることを褒めてくれたのだ。
「マフラー持ってないの?」と言うところを、
「ブリコラージュだね」と皮肉ではなく素直に言う彼女は、
「現実」を自分のものさしで見ている人で、
ものごとには違う側面もあるということを知っている人だった。
ふと、そんなことを思い出したのは、
昨日久しぶりに会った人との会話がどうにも面白くなかったからだ。
なんでこんなにつまんないんだろうと考えてみると、
その人が、世間一般の見方でばかり話をするからだと、気づく。
その人は、自分のことを「ワーキングプア」「低所得者層」
「都市で疲労していく若者」「結婚できない負け組」と、
よく聞く世間の言葉で語ってくる。
確かに彼は、「ワーキングプア」で「低所得者層」で
「都市で疲労する若者」で「結婚できない負け組」だけど、
だからといって「金がない」ことがそのまま=「ワーキングプア」ではないし、
「結婚できない」ことがそのまま=「負け組」ではない。
ある見方ではそうとも言えるし、違う見方ではそうとは言えないこともある。
自分のことなんて自分で評価してもかまわないのに、
世間で言われている言葉だけで自分を語ってしまえば、
世間の見方でしか自分を見れなくなってしまう。
自分のことなのに、評価をすべて世間に預けてしまうのは、
なんだか、ひどく、もったいない。
パーカーでその場をしのいでいた僕は、
その後、バイト代が入ると、藤沢駅の店でマフラーを買って、
「やっぱりマフラーっていいもんだなあ」としみじみ思う。
そうは思うんだけど、
パーカーを巻いていた時のことを惨めに思うわけでもないし、
あれはあれで、工夫した結果だなと思う。
あったらあったで「マフラーっていいなあ」と思うし、
なければないで「ブリコラージュ的には、これもアリだな」と彼女の言葉を思い返す。
そういうものごとの見方の多さが、豊かさを測る指標の一つだと思うし、
単純に、世間的な見方だけでものごとを見るよりも、楽しいなと僕は思う。
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