大学の体育でテニスを教えてくれた老先生は、
以前、松岡修造のコーチだったらしい。
それが本当かどうか確かめるすべはなかったが、
本当かもしれないと思わせるくらいテニスが上手かった老先生は、
松岡修造のことを「普段から、かかとをあげて歩いてたな」と言っていた。
いつ何が起こっても俊敏に動けるように、
「松岡はつま先立ちで歩いていた」と。
それが本当かどうか確かめるすべはなかったが、
あまりに「松岡修造」のイメージ通りすぎて、創作じゃないかと思った。
先日、松岡修造の娘が宝塚に合格したらしく、
ネットや週刊誌では、松岡修造の子育て論が特集されていた。
その中の一つに、松岡家では、外食の際、
食べるものを即決しなければいけないという決まりがあった。
人生において、チャンスは、ふいに訪れ、
すぐにつかまなければ、目の前に現れたチャンスは逃げてしまう。
チャンスだと思った瞬間に、掴むべし。
だから、メニューなんかで、悩んでちゃいけない。
素早い判断力を養うためには、
普段から、即決する癖をつけることが大事なのだ。
食べるものを即決する方がいいか、
じっくり選んでから食事を楽しむ方がいいかは、意見が別れると思うが、
その「決断」の仕方を教えるのは、親しかいないなと思う。
教育に、親が教える部分と学校が教える部分があるならば、
学校は、社会の建前を教え、家庭は本音の部分を教える。
社会の建前を教える学校で多くを学んだ子ども達は、
「決断」を、選択肢の中から何かを選ぶことだと考えるようになる。
選択肢の中から進学先を選び、
選択肢の中から就職先を選ぶ。
そして、誰しも平等に「決断」する権利が与えられていると考える。
しかし、現実は、大きく、違う。
「決断」する際、考える時間なんてほとんどなかったり、
「決断」しようにも、選択肢が全部ハズレだったり、
そもそも、「決断」する権利が自分にだけ与えられなかったりする。
「この中の選択肢から最良のものをじっくり一つ選んで下さい」
そういうお膳立てされた状況は、中々ない。
まだ選択肢が提示される前の段階から、チャンス!と思って掴みかかるくらいの瞬発力が必要だったり、
皆が1〜5の中で選んでいるのに、6の選択肢を勝手に作るような機転が必要だったりする。
それは、学校では教えられない。
家庭で教えるしかないのだ。
もし仮に、家庭でそのことを教えたとしても、
思春期の子ども達は耳を傾けないかもしれない。
でも、そう諭す父親が、普段から、かかとをあげて歩いていたら、
”どんな時も、俊敏な対応が大事なんだ”ってことは、嫌でも学んでしまう。
子どもは、よく見ている。
耳で聞くよりもよっぽど、目でよく大人を見ている。
コメント