「尊敬する人は?」と子どもに尋ねて、
「広瀬中佐」と、軍人の名前がぽんぽん出る時代があった。
80年ほど前のことだ。
10数年ほど前、尊敬する人ランキングの上位に
「親」がランクインするようになって、
「尊敬する人」に身近な人をあげてもいいような雰囲気に変わってきた。
その流れに対して、
「子どもが大きな夢を描かなくなっている」と苦言を呈する人もいたが、
現在では「(尊敬する人)特になし」という答えもけっこう多いらしく、
「尊敬する人が」「身近な親」なのと、「いない」のとでは、
どちらがマシなのか、微妙なところだ。
今の高校生に「尊敬する人は?」と聞いて、
「マザー・テレサ」とか「坂本龍馬」とは答えずに、
「別にいない」と言っちゃう感じはわかるけど、
そこは大きく広げて、大人物の名前を言ってもらいたい。
身近な人を「尊敬する」作業は、
大人になってからでも、十分できる。
子どもの頃は、物語(本)の中の人物にあこがれてほしいなと思う。
「尊敬する人は?」と聞かれた時に、
身近な人をあげない方がいいと僕が思うのは、
「身近な人」には、「汎用性」がないからだ。
「尊敬する人」ってのは、「その人みたいに生きたい」という憧れの対象だったり、
何か自分が困った時に、「指針」や「手本」になってくれる人のことだ。
でも、人生には、色んなバリエーションの困ったことがあるので、
「指針」や「手本」になってくれる人には、
なるべく、色んなバリエーションの困ったことを経験をしておいてもらわないと困る。
坂本龍馬は、僕が経験する程度の悩みはすべて経験しただろうと思えるからこそ、
何か困った時に「指針」になってくれるけれど、
それが「身近な人」では、すべての悩みがカヴァーできなかったりする。
ある悩みでは手本になるけど、
違う悩みでは手本にならない。
そういう「尊敬する人」の守備範囲外が見えてきた時に、僕らは、
「お父さんの若い時とは時代が違う」「お母さんとは状況が違う」と、
ついつい「尊敬する人」に、言い訳を言ってしまう。
「尊敬する人」に言い訳しても何も解決しないし、
言い訳したいけど、前を向かざるをえない時に引っ張ってくれるのが、「尊敬する人」だったりするので、
「尊敬する人」は、色んなバリエーションの困難に立ち向かった、
「汎用性」の高い人がいいと、僕は思う。
だからと言って、歴史的な大人物こそが「尊敬する人」にふさわしいかというと、
そうでもなくて、
やはり、自分から遠すぎる人は、「手本」にならない。
空海や聖徳太子が、僕らの日々の小さな悩みを「うんうん」と聞いてくれるとは思えないし、
彼らが何で悩んでいたかなんて、正直、想像もつかない。
日々の生活や考えを想像もできないような遠い人は、
「尊敬する人」としてはふさわしくない。
身近すぎても、だめ。
遠すぎても、だめ。
子どもたちには、その両極の間で、
ちょうどいい具合の「尊敬する人」を是非、見つけてほしい。
「身近な人」よりも色んなバリエーションの困難を乗り越えてきて、
「歴史上の大人物」よりも自分が共感できるような人を。
そう、「父親」と「空海」の間にいるような、
「母親」と「マザー・テレサ」の間にいるような人を、見つけてほしい。
(めっちゃいるな・・・)
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