最近は、旅行先の写真や情報が多分にウェブにあがっているので、
海外旅行でも、迷うことや人に聞くことが少なくなった。
旅先の目的地に着いても、
事前に見た写真との「答え合わせ」で終わってしまい、
大した感動もなく、海外から帰ってくることも多い。
それでも僕含めて、人が旅に出るのは、
旅の目的地や計画の外で面白いことがおこるからだ。
旅の思い出のほとんどは、もともと計画していなかった場面の記憶。
行く前には想像すらしなかった出会いやハプニングが、
のちのちまで覚えている”いい思い出”になる。
人は、計画を立てて、目的地を決めつつ、
計画から漏れるものに期待し、
目的地と目的地の間で出会うものに期待している。
今関わっている高校で、
生徒たちが「海外研修」としてタイに一週間ほど行けるプログラムがある。
ただ、興味を持つ生徒が少なく、
「応募者がなかなか増えない」と、先生が嘆いている。
研修先がタイなのが生徒に響いていないのか、
研修プログラムが真面目すぎるのが原因なのかはわからないが、
例えプログラムの内容がつまらなそうだとしても、
生徒たちには、「おおいに参加しようぜ」といいたい。
「子どもたちよ、旅に出よ」と、ボリュームを大にして言いたい。
旅の中で起こる面白いことが、
「プログラム」に書かれていると思ってはいけない。
事前に計画された「プログラム」というのは、
カンボジアでいう「アンコールワット」のような、
とりあえず行っておく「目的地」であって、
そこに、期待してはいけない。
本当に面白いことは、計画されたプログラムの外にあるのだ。
例えば、アンコールワットにいく道すがらなんかに。
「じゃあ、その道すがらに、どういう面白いことがあるんですか?」
そう聞かれたとしても、僕には答えられない。
だって、僕は、まだ、その旅には出ていない。
『「未熟」な者が旅に出て、「成長」して戻ってくる物語』は、
世界各国の童話で見られる、共通の物語構造だが、
どの童話でも、旅に出る前の「未熟」な主人公は、
自分が旅で、「成長」するなんて想像すらしていない。
「未熟」な者は、旅先で起こることが見通せないのだ。
見通せないから、あまり考えずに、とりあえず、家を出る。
それに対して、自分を「未熟」だと認めない人は、
自分で、自分の未来を想像できると思いこんでしまう。
印刷された、つまらなそうな「プログラム」を見て、
旅先で起こりそうなことや得られることを頭に浮かべ、
「自分にはプラスにならなそうだ」と、家にステイしてしまう。
「未熟者」には自分の未来を想定することなんてできないのに、
「未熟」な判断で、自分の未来を勝手に見限ってしまったら、
せっかくの「成長」の余地が閉ざされてしまうじゃないか。
高校生であっても、大人であっても、
旅に出る前の僕らは、いつだって「未熟者」だ。
何度旅に出ても、帰ってきた後に、
「あんなことが起こるなんて」と思うし、
「それに対して、自分があんな対応をするなんて」と思う。
旅は人を成長させるが、
旅が人をどう成長させるかは、旅に出る前にはわからない。
まだ旅に出ていない「未熟者」は、
「現時点では、旅先で起こることなんて予想できないんだ」と自覚して、
「何かあるだろう」という期待のもとに、
「海外研修」の申込用紙を提出するより他はない。
海外は、匂いからして違うんだから。
行けば、絶対、なんか、ある。
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