高校で新学期が始まると、新しいクラス全員で、クラス写真を撮る。
今時の高校生たちの写ったクラス写真を見て驚くのは、
生徒たちの写真写りの良さだ。
誰もが「いい顔」で写っている。
みんな、なんていうか、撮られ慣れてるなぁ・・・と思ってしまう。
僕が高校生の頃なんか、
どういう顔していいかわからないままにシャッターが切られて、
目をつぶっていたり、ぎこちない笑顔だったり、
クラスの可愛い子さえも、微妙な表情で写っていたのに、
今の子たちは、皆、普段通りか普段以上の「いい顔」で写っている。
しかも、それが「キメ顔」でもないのが恐ろしい。
ナチュラルにいい表情。
自撮り文化、ここに極まれり、だ。
世の中が携帯電話を持ち出した頃に大きくなった彼らでさえ、
このハイスペックなので、
スマートフォン時代に生まれ育っている今の小学生なんかは、
どれほど「写真撮られ」のテクニックを身に着けてくるのだろう。
今の高校生はスマートフォンを持ち歩いているので、
普段から何枚も写真を撮りあっているが、
スマートフォンなんてなかった時代でも、
学生たちは、自分たちの写真を妙に撮りたがっていた。
これまで生きてきた時間が短いからか、
子どもたちは、自分たちの生の記録を欲しがる。
写真に残された記録を見て、
自分たちの生の存在を確認し、安心している節がある。
これまで生きてきた時間が長い老人や、子育てしている親たちも写真をたくさん撮るが、
彼らがたくさん撮るのは、「生の記録が欲しいから」ではなく、
「時の移ろいを止めたいから」だ。
今しか咲かない花や、二度と訪れることのない「3歳児の我が子」を、
「記録に残しておきたい」と思う気持ちが、シャッターを押させる。
「写真に撮られたい」「記録に残したい」と思うのは、
「記録に残さないと不安に思う人たち」と、「記録に残して時を止めたいと思う人たち」だ。
だから、一番、写真を撮らないのは、世のおじさん達。
生の不安からも、時を止めたい欲求からも、もっとも、縁遠い人たち。
でも、だからこそ、
記録に頼らないおじさん達が、もっとも、安定して生きているとも、いえる。
おじさん達に、自撮り文化はない。
記録に頼らなくても、おじさん達は、楽々と生きていける。
おじさんと言われる人たちは、生き物として、もっとも安定している。
コメント