中学生の頃、中学校に「太郎冠者」が来た。
中学校で見たと記憶している「狂言」の話だが、
本当に見たのか見てないのか覚束ないくらい記憶が薄い。
日本は伝統ある国なので、伝統芸能がたくさんあり、
今も、各学校で、「日本の伝統芸能を見る会」が開催されているが、
あれにはどれほどの意味があるのだろう。
子どもに狂言の面白さが分かるとは思えないが、
分からずとも一度は見ておけ、ということだろうか。
一度見ておくことと、一度も見ておかないことの間に、
大きな違いを、大人たちは感じているのだろうか。
記憶の中では、生徒全員が集まった体育館で「太郎冠者」を見たわけだが、
そういった「伝統芸能を観る会」は、
学校によっては、「クラシックを聴く会」に取って代わられたりしている。
どの学校もが、「伝統に触れさせる」ことを目的にしているわけではなく、
「生を観せる」「本物を観せる」という目的でやっているところもある。
「生」や「本物」の芸能を見せることが目的ならば、
オーケストラでも宝塚でも、漫才だっていい。
子どもにとっては、「太郎冠者」よりも「お笑い芸人」が来た方が、
まだ、日本の芸能を理解できるというものだ。
それにもかかわらず、今も多くの学校が
「狂言」や「能」や「人形浄瑠璃」を子どもたちに見せたがっている。
子どもに分かるわけがないのに、
何故か、大人は、子ども達に、「伝統芸能」を見せたがる。
その習性は、修学旅行でも同じで、
執拗に、大人は子ども達に「京都」と「奈良」を見せたがる。
中学生に神社仏閣の良さが分かるはずもないし、
仏様のありがたみがわかる年齢でないことは知っているはずなのに、
何故か、大人は「伝統都市」を子ども達に見せたがる。
京都の良さがわかるのは、少なくとも、成人した後で、
大人になって初めて、「そうだ、京都へ行こう」と思い立つ。
その時、中学校の時京都に行った一回の体験が大きな役割を果たしているかというと、
ほとんど果たしていない。
修学旅行で行こうが行くまいが、
「京都へ行こう」と思う人は思うし、行かない人は行かない。
中学生時代に、大人に促されてしぶしぶ体験したことは、
「伝統都市」だろうが「伝統芸能」だろうが、
あまり、将来には影響しないように、個人的には思う。
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