福山市に「禅と庭のミュージアム」というものがある。
禅にまつわる展示物や建築物が拝観できるお寺で、
江戸期の禅僧・白隠慧鶴の禅画を多く所蔵している。
ミュージアムは山の中にあり、福山駅からバスが出ているものの
二時間に一本くらいの割合なので、
友達と車を相乗りして、向かうことにした。
お寺までの車中で、最近の音楽の聞き方の話になり、
カセットやMDで音楽を聞いていた時代、
どれだけ、一曲を大切にしていたかの話で盛り上がった。
聴ける音楽が決まっていた時代は、一曲一曲を舐めるように聞いていた。
特に、海外にいたり、旅行先にいた時は、聴けるMDの枚数が更に限られたので、
本当に、丁寧に音楽を聞いていた。
いつでも、どこでも、何度でも音楽が聴けるようになった今は、
多くの音楽に触れることができるようになった反面、
一曲を大切にするということができなくなった。
それは、聞き手にとっても、作り手にとっても、ハッピーなことではない。
そういう話をずっとしていた。
「禅と庭のミュージアム」は広大な敷地の中に、
現代美術家・名和晃平氏が作った方舟のような巨大アートパビリオンや、
建築家・藤森照信氏が作った土着的でメルヘンな建築物など、
目を引く建物がいくつもあった。
初めて見るそれらの建物をじっと眺めていると、
友達が、近くから遠くから、スマートフォンでパシャパシャ建物を撮っている。
右から左から際限なく、パシャパシャパシャパシャ。
「おい」
「ん?」
「さっき、車のなかでした、音楽の話、忘れたんか?」
「ん?」
車中でした音楽の話は、写真に通じる話でもある。
むかしは、撮る枚数が制限されていた写真も、
手軽に何枚も撮れるようになって、
さらに、その場で写真を確認できるようになって
人は、一枚一枚の写真を大切にしなくなった。
「お前の撮り方は、写真の大切さを失わせてんだよ。
撮っていいのは、一建物につき一枚のみ!」
「えー!」
ジブリの宮﨑駿監督は、取材に訪れた旅先で、写真を撮ることがないらしい。
写真どころか、スケッチもせず、
家に戻ってから、目に焼き付けた風景を絵に落としていくという。
写真に頼ると、自分の目で見ようとしない。
大切なのは、”見る”ことであって、”写す”ことではない。
「一枚くらい、一緒に撮っとくか」
白隠和尚の禅画が収められているお堂の前で、友達は僕にそう言い、
旅行者らしきおばさんに近づいていく。
そういえば、今日、一枚も自分たちを写していない。
一枚くらい、記念を残しとくか。
「俺ら、一枚しか写真撮らないって決めてるんで、
一枚だけ、撮ってもらっていいですか?」
おばさんにそう頼み、お堂の前に二人で立つ。
自分が写真に入ろうが入るまいが、今日は、一建物、一枚。
撮り直しは、なしと決めたのだ。
一発で、決める。
目をつぶらないように。
最高の笑顔で。
「じゃあ、撮りますよぉー。
はい、チーズ!」
24枚しか撮れなかった”写ルンです”の時代、
一発勝負が当たり前だった江戸末期から明治時代
人は、もっと気を張って、写真を撮っていた。
一枚入魂。
いつでも、いくらでも、写真が撮れるようになって、
僕らは、ちきんと一枚の写真を撮る気概を忘れている。
「あー、なんか、ごめんなさーい。ちょっと、ブレちゃってるみたーい」
写真を頼んだおばさんは、スマートフォンの扱いになれてないらしく、
もう一枚撮ろうかと言っているが、友達はそれを笑顔で丁寧に断っている。
そう、今日は、一建物、一枚。
そういうこと込みの、「一枚入魂」なのだ。
でも、だったら、もっと、撮るのうまそうな人に頼めよな!
馬鹿!
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