「名選手名監督にあらず」というけれど、
テニスだけはことごとく名選手が名監督になっている気がする。
名選手が名監督になっているというより、
名選手のコーチがことごとく元名選手だ。
フェデラーもジョコビッチもマレーも錦織も、
コーチは皆グランドスラムを制したような一流プレイヤーで、
選手としての実績がないコーチを付けているのは、ナダルくらいだ(父親がコーチ)。
「名選手名監督にあらず」なのは、
教えることとプレーすることがまったく違っていて、
教える際には、プレーを言語化したり、
弱点を分析したりする能力がなくてはなくてはならないからだ。
そもそも、コーチになるということは、
自分ではなく他人が上達することを喜べなくてはいけない。
それは一つの性質であって、プレイヤーとして世界の頂点に登りつめた人が、
皆、他人の上達を喜べる性質を持っているかというと、そうではない。
にもかかわらず、テニスに限っては、多くの名選手が名監督になっているのは、
テニスが他のスポーツよりも「孤独な」スポーツだからだろう。
試合中、基本的にコーチのアドバイスが受けられないテニスは、
自分で状況を把握し、自分で劣勢な状況を打開していかなければならない。
常に自分の頭で考え、試行錯誤することを強いられるテニスでは、
他のスポーツと違い、自然とコーチに必要な「客観視」の能力が備わるのかもしれない。
それに、テニスが個人スポーツという点も大きい。
チームスポーツであるサッカーや野球などは、
コーチの仕事が技術やメンタルの向上だけでなく、組織マネジメントの向上にも向けられる。
一人のプレイヤーの能力をあげることだけに集中できるテニスは、
コーチの仕事が明快であり、
現役時代にプレイしていた経験がそのままコーチングに反映されるのだろう。
サッカーや野球に、ポジションがたくさんあるために、
かつて監督自身がプレーしていたポジション以外の選手の気持ちが、
本当のところではわからないのとは状況が違う。
加えて、現代スポーツはデータを取ることが容易になり、
大量のデータをどう活用するかがコーチに求められるようになったため、
チームスポーツでは個人スポーツよりもより、
相手に応じた「配置」や「対応」や「読み」が重要になっている。
テニスもチームスポーツと同じように、
各プレイヤーにデータ解析班が付いているが、
一対一の勝負だと、個人の「自力」がものをいうことも多く、
チームスポーツほど、データ分析が”ハマらない”。
データが最も取りやすいチームスポーツである野球は、
アメリカでも日本でも、プレイヤーとしては実績に乏しかった元選手が次々と、
監督に就任して結果を出している。
プレイヤーとしての実績がなくても、
高度な戦術と組織マネジメントをうまくやれれば、監督は務まる。
データが活用しやすい野球は、これから最も
「名選手名監督にあらず」なスポーツになるのかもしれない。
いや、これまでの日本のプロ野球も十分「名選手名監督にあらず」だったのだが、
それを球界やファンは許容してきた。
名監督であろうがなかろうが、
チームの成績よりも興行としての成績を重視していた節のある各チームは、
強いチームよりも客の入るチームを作ってきた。
(全然客の入っていない昭和のパ・リーグを見ていると、
客の入るチームを作る気すらなかったのだろうと思わされるのだが・・・)
昭和のプロ野球には、「三振かホームランか」のバッターや、
「三振はいっぱいとるけど暴投もいっぱい投げる」ピッチャーがいたが、
魅せるプレーがあればそれでいい。
そう、野球の興行主は考えていたかもしれない。
しかし状況に応じて選手の配置が変わらないテニスは、
野球ほど「魅せる」場面が少ない。
テニスで「珍プレー好プレー」集を作ろうとしても、
そんなに長いVTRにはならない。
テニスの好試合は実力の高いプレイヤー同士でしか起こらず、
日本の高校野球のように、レベルは低いけれど面白い試合だったなどということは、
滅多にない。
テニス選手に求められることは、うまくなることだけなのだ。
ひたすらにレベルをあげることが、観客に魅せることにつながる。
だから、コーチは他のことに惑わされず、選手の実力を高めることだけに集中するのだ。
テニスが世界で一、二を争う高額スポンサーが付くような競技になっても、
世界のトッププレイヤーたちが金と地位に堕落せず、
高いモチベーションでプレーし続けられているのは、
選手もコーチも、ストイックに競技レベルを上げることだけを考えていればよいという
テニスの競技環境が影響しているのかもしれない。
今のBIG3(マレーが帰ってくればBIG4)がトップに君臨している時期は異様に長いが、
錦織も、息の長い選手になってほしい。
そして、いつかグランドスラムを。