「毒親」という言葉がある。
子どもに毒をもたらすというイメージで、子どもを支配し、悪影響を及ぼす親に使われる。
イギリスで生まれた俗語(学術用語ではない)らしいが、ここ数年で急激に日本に広まった様子を見ていると、
この言葉がいかに、多くの人のこころを捉えたのかわかる。
皆、言い得て妙だと思ったのだろう。
子どもに害を与える親を「毒親」と呼ぶかどうかにかかわらず、子どものことを支配しようとする親たちの傾向は、今後さらに強くなるように思う。
これからさらに一世帯当たりの子どもの数が減っていくことに加え、地域コミュニティや学校など、家庭以外からの子育ての介入ができなくなることは、子育てのステークホルダーが親のみになるということだ。
また、子育てが多様化していくことは、各家庭がよい子育て方法を選ばなければならないということであり、子育ての出来不出来が、そのまま親への採点のように感じる人が増えていけば、親が子どもに、自分の意向や願望をますます押し付けるようになることは容易に想像できる。
一世帯に子どもが七人も八人もいる時代には、それぞれの子どもがどう育とうが親の責任ではななかっただろうし
(そもそも、変てこりんな子も生まれるだろうから多く生むのだし)、
親以外に子育てに口出しする人があちこちにいる状況では、誰の影響で子どもが変てこりんになったかも判別がつかない。
(それに、その子が変てこりんかどうかは判断する人が決めることだ)
それに比べ、家庭に一人か二人しか子どもがいない時代に、子どもの将来に対する責任を勝手にしょいこんだ「毒親」たちは、子どもに「呪い」をかけるようになる。
「毒親」は呪いをかけているとは露ほども思っていないかもしれないが、「毒親」であればあるほど、子どものことは自分が一番理解していると思っている。
本人以上に子どもを理解していると思う親は、その言葉で、子どもの将来に暗示をかける。
それは時に直接的な言葉の呪いであり、時に、期待という名のポジティブに見える呪いである。
その言葉がネガティブなものであれポジティブなものであれ、未来のことを言葉にするということは慎重を要するものなのに、親は、子どもの未来を言い当てようとする。
たとえ、親が客観的に見れば立派な「毒親」であっても、「親」というだけで、子どもは親の「予言」という名の「呪い」を無下にはできない。
言葉は力を持ち、子どもが拒否しようともがいても、その「予言」に引き寄せられていく。
そんなことを、シェークスピアの「マクベス」を読んで思っていた。
「マクベス」の中で、主人公・マクベスを動かすのは、魔女たちの予言である。
マクベスは戦の帰りに、自分さえ知らない事実を魔女に言い当てられたことから、魔女たちの言葉に引っ張られ始める。
古代や中世においては、このような予言や託宣が大きな力を持ち、高い地位に就くものたちは、それらの、未来を示す言葉に一喜一憂していた。
予言や託宣という非科学的なものが世間から姿を消したように見える現代では、未来を作るのは人間自身の意志や計画だと考えられている。
現代には、魔女もシャーマンのような未来を見通せるものは誰もいないのだから、人間が理性的な意思や計画でもって未来を設計していくものだという了解が社会にはある。
それは個人中心の人生観で、かつて王権神授説などに見られたような、神と人間をつなぐ論理(や存在)はそこにはない。
未来を決めていくのは人でしかない。
しかし、いまだに、というか、いつの時代も、未来を切り開いていく人の意思を作るのは、言葉である。
言葉に引き寄せられるように、人は進み、止まる。
そういう意味では、現代の魔女やシャーマンは親(主に母親)である。
子どもの未来を暗示し、予言し、そこに突き進ませることができる。
その言葉が時に良い未来を運ぶようであれば、その親はシャーマンか神官ということで、逆に、悪い未来しかもたらさない(毒親と呼ばれるような)人たちであれば、魔女確定ということになるのだろう。
仕事柄、学校にいて、思春期の子どもたちを見ていると、その子たちが今後、ぶち当たるであろう悪い未来が見えることも多い。
しかし、それを口に出すことははばかられる。
自分が見たビジョンが間違いかもしれないのに、それを言葉にすると、それは予言になってしまう。
僕のような、親に比べてはるかに影響力の弱いものが言う言葉などすぐに忘れてしまう可能性の方が高いが、言葉を過信することはできない。
予言や呪いは、人を離れて歩くこともある。
それを、このくにでは「言霊」といって恐れてきたことを忘れてはならない。
ことばが、人間によって作られたものではない以上、あなたの言葉が呪いにも祝福にもなることを、ゆめゆめ忘れてはならない。