「今を生きる」という映画がある。
学園モノというか教師モノの映画では必ず筆頭に挙げられる名作で、
主演した、故ロビン・ウィリアムズも、自身のベスト作品と公言していた。
厳格な全寮制高校に赴任した、ロビンウィリアムズ演じる英語教師キーティングは、
授業中、机の上に立って「視点を変えろ」と言ってみたり、
教室の外に机を出して授業をしてみたりと、
従来の先生とはかけ離れてた先生像で、生徒たちをぽかんとさせる。
それでも、「著者はまったくわかってない」と生徒に教科書を破らせる破天荒な先生に、
生徒たちは、じょじょに魅了されていく。
それまで、親や先生に「よい大学に行くことことすべて」という価値観を植え込まれた
生徒たちは、キーティングに触発され、親や教師に与えられた価値観ではなく、
本当に自分がやりたいことがなんなのかを次第にに考え始める。
原題は「今を生きる」ではなく、
「The Dead Poet Society(死せる詩人の会)」で、
キーティング自身が高校生だった時代に、
仲間と洞窟に集まって詩を読んでいた会の名前から取ってある。
映画「今を生きろ」を初めて見たのは高校生の頃だったが、
初めてその物語の存在を知ったのは中学生の頃だった。
映画がノベライズされた小説を図書館で見つけて読み、
「詩を友達と洞窟で読みあう高揚感」など共感できない部分もあったが、
未来に不安を抱く高校生が、自由闊達な先生に出会って、
未来を切り開いていくというストーリーは、胸にくるものがあった。
それから10年が経ち、高校、大学を通りすぎてふらふらしていた時に、
久しぶりにその映画を見返すことがあった。
改めて見返して、ロビン・ウィリアムズのそのはまり役ぶりに驚嘆したのだが、
その時、最も気になったのは映画の内容よりも、そのタイトルだった。
邦題;「今を生きろ」。
原題から大きく離れたそのタイトルは、
キーティングの劇中のセリフから取られたもので、
「将来のため」「今後のお前のため」と、
親や教師に言われるがままに「今」を犠牲にしている生徒たちに対して、
キーティングが古典の授業に絡めて強調した言葉だった。
劇中での、子供を取り巻く状況は、
今の日本でも、僕が初めて物語を知った当時の日本でも似たようなもののはずなのに、
中学生や高校生のぼくは、
「今を生きろ」という言葉にまったくピンときていなかった。
物語を初めて知ってから10年たった20代の半ばになって初めて、
なるほど、「”今”を生きる」かぁと、
改めて映画のメッセージ性に気づいたのだけれど、
それは、だんだんと、当時の自分が
「今を生きれなく」なりはじめていたからかもしれないが、
それよりも、当時、部屋にこもって、
仏教の本ばかりを読んでいた時期だったということの方が大きいかもしれない。
仏教は「今」、「今」、と「今この瞬間」の大切さをくどいほど主張してくる。
過去を振り返ったり、未来を憂いたりしても、
自分が感じれる時間、手にしている時間は今しかない。
だから、今の自分に気づいて、この瞬間を大切に、と繰り返す。
頭に浮かぶ考えであれ、体が感じる感覚であれ、執着してはいけない。
それが期待や楽しみ、快感のような「ポジティブ」なものであっても、
不安や悩み、不快感のような「ネガティブ」なものであっても、
「判断」せず、「評価」もせず、
ただ、「今」、この瞬間、それがあることに気づき、眺めていれば、
執着しなくなる。
人生の「苦」から離れられる。
そのために、「今」を見つめなさいと。
そうやって、あまりにどの仏教の本も「今」、「今」というもんだから、
本を閉じて街に繰り出して、TSUTAYAの店内をぶらぶらしている時でさえも、
『今を生きろ』『前進せよ、今がそのときだ』『いま、会いにいきます』と、
「今」を語るタイトルが目に入ってきたのだろう。
なんだよ、ロビン・ウィリアムズも「今」の話かよ・・・。
またそれから10年ほどが経つと、
自分がキーティグに教えられる生徒の年齢から
キーティングと同じ、教える側の年齢と立場になった。
歳が近くなると、10年前、20年前よりも、
あの時、キーティングが生徒たちに伝えたかったことが明確にわかるようになったし、
もっと「今を生きろ」と、子どもらに言いたい気持ちもわかるようになった。
大人になると、今だけに集中できなくなるし、
なにより、あの頃の「今」とは大きく「解像度」が違う。
思春期の「今」ほど鮮明で貴重な「今」はないと思う。
そして、同時に、10年前、20年前よりも、
授業中、机の上に立ったり、教科書を破らせたキーティングに同意できなくなってきたし、
物語の終盤、キーティングを辞めさせた校長の気持ちがだんだんとわかるようになった。
初めて読んだ頃は、嫌な校長だと思っていたのに、
校長側の気持ちもわかるようになるなんてね・・・。
(そういえば、夏目漱石は、熊本の高校で
生徒に「possible」と「probable」の違いを教えるために、
「私が今ここ(教壇)で逆立ちをすることは
「possible」だが「probable」ではない」
という説明の仕方をしたという。
机に立つことも逆さになることもしない漱石は、
キーティングよりだいぶ冷めた教師だったのでしょうね)
そんな、中学生の頃に知った、昔の映画の思い出が蘇ってきたのは、
昨日、パソコンの中に書き溜めていた7年分のメモが、
すべて消えてしまったからだ。
「クラウドに保存してあります」ってパソコンはずっと言ってたのに、
ずっと保存されていなかった。
アップルのカスタマーセンターの担当の人が、
数時間探してくれたが、どこにも見つからない。
「過去」は、PCとクラウドの間の電子空間に消えたのだ。
うそ・・・待って・・・、そんな・・・、消えたの・・・?
一瞬のうちに自分の「過去」を失ってうろたえるぼくの心の中で、
教科書を破りながら机の上に立ったキーティングは明朗に言う。
「過去を見ようとするな。今を生きろ!」
キ、キーティング・・・。
これまで取っておいたあのデータもこのデータも消えてしまって喪失感はとてつもないが、
このタイミングで消えたのは、
「過去を振り返るな」という誰かからのメッセージかもしれない。
「今だけを」を見ていろという、誰かからのメッセージかもしれない。
(もしくは、「バックアップは常に確認しとけ」っていう
ジョブズからのメッセージかもしれない)
アップルカスタマーセンターと電話がつながっているにもかかわらず、
データが戻らないと知らされて、ショックから黙ってしまっていたぼくは、
ゆっくりと一息入れて、
「これは、”今を生きろ”というメッセージかもしれませんね・・・」
と、アップルのカスタマーセンターの人に言った。
その人は、自社製品の不具合から生じた状況に責任を感じて謝罪していたのだが、
その言葉に、一つ高いトーンで、
「そんなにポジティブに考えていただくなんて、本当にありがとうございます!」
と、礼を言ってきた。
いや、アップルさん。
この考えはね、「ポジティブ」とかではないんです。
「ポジティブ」とか「ネガティブ」とか、
そういう「判断」や「評価」がすべての元凶なんです。
最初から「過去」はなく、あるのは、「今」だけなんです。
だから、「誰が悪い」とか、「今後どうすればいい」とか、
「過去」のことも「未来」のことも、どうでもいいのです。
「今を、今だけを、生きるんです」
そう、電話ごしにぼそぼそと、僕はつぶやいた。(泣きながらね)。