小学生の頃、校長先生が「人の命は地球より重い」とみんなに対して言っていて、「人の命が地球より重いなら、地球には一人しか住めんやん」と思ったのは中学校になってからか、それとも、他の人がどこかに書いたものを記憶していただけだったか。
その頃、道徳の授業でも全校朝礼でも、「人の命の地球より重い」という言葉がお題目のように出てきていたということは、命が失われるような事件、自殺かいじめなんか、が社会的な問題になっていたのだろうと思う。
現実的には無理のある「命の重さ」と「地球の重さ」が天秤にかけられて論じられていた。
大学生になると、「命の重さ」を天秤にかけてきたのは、遠く、中東の武装組織だった。
日本人がイラクの武装組織に捕まったことに端を発して、「命の重さ」の反対には、国民の安全や民主主義、法治国家などが載せられることとなった。
あの時広まった「自己責任」という非難や指摘は、15年以上経った今も、社会で広く共有されているように思う。
「自由」はあるが、「責任」は自分で取れ。
たとえ、命の危険に晒されたとしても。
それが他人に対する社会の非寛容さの拡大につながったのかどうかはわからない。
「命」と「自由」と「責任」を載せた天秤は、新型コロナ対策において、再び表面化した。
誰かの命を守るために、他人の自由をどこまで制限していいものか。
ただ、イラクの件とは違い、命の危険に晒されている人は、自らの意志でイラクに行ったわけではなく、無作為に選ばれており、誰の命をも奪う可能性があるということである(数字の大小は別にして)。
ただ、問題は、いつまでやるのかである。
みんなで我慢しているのは、我慢しないと終わらないからだが、一方で、どこまでなら我慢できるのかという問題もある。
今年も、高校生は修学旅行に行けず、大学生はサークル活動ができず、新入社員は歓迎会すらしてもらえないだろう。
これが2年程度であれば社会の一員としての「責任」とともに「我慢しろ」ともいえるが、5年だったらどうだろう。
「命」と天秤にかけられているのは「自由」や「民主主義」ではなく「時間」かもしれない。
そうした場合、「時間の重さ」は、17歳と71歳では、大きく違う。