コペルニクス的転回

小学校の頃、同級生だったSは、勉強ができず、運動も下手で、背が低くて、薄くひげが生えていて、後頭部が絶壁みたいに垂直で、アル中のおじさんみたいなダミ声だったから、みんなから「子泣きじじい」と呼ばれていた。
小学校の目の前に住んでいるのに、2日に1回はきちんと遅刻してきて、宿題もしてこないから先生に怒られるのが日課みたいなもので、でも、怒られたら怒られたで、「宿題やったけど持ってくるのを忘れた」みたいな嘘をついてしまうから、「(家も近いし)じゃあ取ってこい」と言われて、家に帰ったまま学校に戻ってこないみたいなことがよくあった。

当時は、お互い子どもだから、客観的にSを見る視点なんてあんまりなかったが、子どもながらに、「なんの取り柄もないやつだ」とぼんやり感じていて、一緒に遊ぶ時も、自分の意見がなく、皆の後ろをくっついてくるような感じだったので、友達にも軽くあしらわれていた。
小学生の時でもそんな感じだったので、中学に上がると勉強の出来なさがより鮮明になり、部活もなんに入ってたのかまったく思い出せないくらい記憶に残らないやつだったが、中学一年時の音楽の授業で、一人ずつ決められたフレーズを皆の前で歌わされた時に、Sがいつものダミ声で一節を歌うと、それまで機械的にピアノ伴奏を弾いていた音楽の先生が、Sの声を聴き終わった瞬間、手を叩いて、「最高!あなた、すごくいいバリトンね。声が抜群!」と、皆の前で拍手したので、僕らはびっくりして顔を見合わせた。

「コペルニクス的転回」というのは、天動説から地動説くらい、発想が根本からひっくりかえることを指すが、この時の音楽の授業ほど、僕らの中でコペルニクスがひっくり返ったことはなかった。
それまで、Sの声は「ダミ声」か「子泣きじじいみたいな声」でしかなかったのに、それが、音楽の先生にとっては「いい声」であり、僕らの、なんでもない普通の声とは一線を画すようなバリトンなんだとは、驚きでしかなかった。
「バリトン」って言葉すら初めて聞いた僕らの価値観は、その日、天地が逆さまになった。

だからといって、Sがその日からヒーローになるなんてことはまったくなかったのだが、この転回を起こすのが教育や学問の役割でもある。
子どもたちが「いい」と思っていたり「へぼい」と思ってる価値は、いつでも転倒される可能性があり、自分たちが生きている世界は「狭い」のだと突きつけることが、子どもたちの世界を広げていくことにつながる。
子どもは、音楽的にナイスなバリトンを、「子泣きじじいに似た声」としか思わないくらいの、ヘボい判断基準しか持ち合わせていない。
そのヘボく、あいまいな判断基準によって子どもたちが埋もれてしまわないよう、大人は子どもに対して、子どもとは異なるモノサシをあてて、別の価値を提示する必要がある。

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