今年はなんだかスポーツの大会が目白押しで、毎晩、何かしら、スポーツの重要な大会が放映されていた。
サッカー→バスケットボール→ラグビー→バレーボール→野球→陸上→女子サッカー→アジア大会(全競技)。
スポーツを見ていると、漠然と、自分の子どもにどのスポーツをやらせようかと考えることがある。
そんなもの、本人が好きなものをやればいいっちゃいいのだが、あるバスケットボール選手が3歳からバスケットボールで遊んでいて、ある卓球選手が4歳からラケットを持っているように、子どもの周りに置いておくボールやラケットによって子どもがやるスポーツが決まることは大いにある。
「子どもが自分で」といっても、そこには親の意向がだいぶ入っているものである。
子どもの決定に親の意向は入れてもいいなとは考えるが、色々と子どものスポーツの面倒を見るのは嫌だなと思う。
正直、お茶当番があるような野球クラブには入ってほしくないし、フィギュアスケートみたいな金のかかりそうなスポーツには絶対に興味を持ってほしくない。
それに、なにも考えずにいれたチームで嫌な指導者に当たるという可能性もある。
最近は、あからさまな体罰は減ってきたとはいえ、実際、まだまだ指導者の食い物にされている部活もあるし、競技ごとに指導の雰囲気や文化は違うものなので、どのスポーツをやるのが子どもの育成環境としていいものかしらと考えたりする。
そこで、一つの手がかりとして、各競技のトップのスポーツ選手の「精神性」や「思考力」を見ている。
監督のいいなりになって、機械的にプレーしているような選手ばかりのスポーツよりも、自律的で前向きにプレーしている選手がいるスポーツのほうがいい。
ただ、そうした選手の素晴らしい性質は、試合中のプレーだけを見ていてもわからない。
というのも、プレー中は誰だって知的で、忍耐強く、キャプテンシーもあるもので、見るべきはコートの外、グラウンドの外での言動、つまり、インタビューの内容ということになる。
どのくらいその人の言葉を使って話しているか。
どのくらいそこに「考え」と呼べるものがあるか。
名選手や名将の「語録」が本屋に並んでいるように、意識して身体を使っている人は、自ずと言語にもその特徴が出る。
日本のスポーツはすぐに「部活的」に流れるし、プロのスポーツ選手は、何も考えず感覚だけでやっていても、その身体能力がずば抜けているがために活躍できる人が多くいるので、実際、コートを一歩出れば、人間として尊敬できない人も多い。
(NBAプレイヤーの60%が引退から5年以内に、NFL選手の78%は引退後2年を持たずに、自己破産するか経済的に困窮するという話もある)
そうではなく、自分の頭で考えて練習に励み、自分を律する言葉を持っている選手や競技を見たいし、そういうスポーツをさせたい。
たとえ言語化能力が高くなかったり寡黙だったとしても、普段から自立的、主体的に生きている人には、その片鱗が言葉からうかがえる。
そういう姿勢で、アスリートたちのインタビューを聞く。
すると、野球も、男子バレーボールも、ゴルフも、女子バスケットボールも、バドミントンも、驚くことに、ほとんどの選手が、中身のない受け答えをしている。
型通りの受け答えをしているか、「最高でーす」といったバカみたいな盛り上げ方しかしていない。
特に、集団スポーツはひどく、知性の欠片も感じられない発言が耳につく。
試合後のインタビューは思慮深い発言をする場所ではないとしても、言葉を選んでいる感じがまったくしない。
その中でもまだ自分の言葉で話してるのが伝わるスポーツは、卓球と陸上くらい。
日本の中学・高校の部活動参加者数は、ここ十年で軒並み、個人競技の人口を伸ばし、団体競技の人口を減らしているが、それはこうしたところの影響もあるのかもしれない。
自分の言葉で話す人を作り出さない日本の集団スポーツは、子どもたちにとっても魅力的に映らないのかもしれない。
ただ、集団スポーツでも、欧米でプレーするサッカー選手がピッチ外の移籍に関しては自主的であるように、また、日本代表のような注目を集める場面では責任感ある発言が出るように、それは競技によるのではなく、シチュエーションによるのかもしれないし、競技というくくりではなく、ただの個々人の資質なのかもしれない。
加えて、SNS社会において、まったく関係ない人から発言の言葉尻をとらえられ、揚げ足を取られるリスクを避けるために、敢えての当たり障りのないコメントをしているのかもしれない。
そうだとしても、言葉・思考の貧困さは、人としての魅力を損なう。
日本のスポーツ教育が他国よりもより「教育的」なのだとしたら、スポーツで培われた人間性が、コートやグラウンドを離れた際に発揮されなければ、教育の成果が出ているということにはならない。
試合後のインタビュー、引退後のコメントで人を引きつけることが、スポーツによる成長を示す機会でもあるのではないのだろうか。
結局、考えても、なんのスポーツを子どもにさせればいいのか、わからなくなった。
そんなことを考えてる親の子どもは偶然の出会いに任せて、楽しくやってそうななにかの競技で遊ばせているくらいで丁度いいのかもしれない。