perfection

「ありのまま」がperfection
赤子はそれだけでperfection
けれど、歳とともに「ありのまま」ではいられない

高慢
卑下慢
闘争
嫉妬

自分ではまっすぐ歩いているつもりでも↑に↓に、→に←にずれてくる
そのたび、そのたびに、「ありのまま」に戻る必要性

投企 そして 放下
jump inと同時にrelease

「ありのまま」であろうというのは時代の要請で、
「ありのまま」の自分を認めることを助長する話はよく聞くが、
たとえば、今の自分の体に「OK」を出すが「ありのまま」を認めることならば、
プリングルスは食べ放題で
エナジードリンクは飲み放題で
エクササイズも筋トレも必要ないのか?
「自律すること」はすでに時代遅れなのだろうか?

否。
それは「ありのまま」を認めるということではなく、「エゴ」を認めること
「ありのまま」というのは、「エゴ」のことでなく「セルフ」のことで
「我」ではなく、神様からもらった、集合的無意識とつながった「己」の存在を認めること
そしてそれが「空」だとわかること(と偉いひとはいう)

「ありのまま」に触れる「純粋経験」は、気を抜くとすぐに「主・客」に分かれ
「主」は、「プリングルス食べたい食べたい」と言いつつも、
「でも痩せたい」「モデルみたいになりたい」「食べながら痩せたい」という
「客」は客で、「私のウェストは太い」「モデルより太い」「12cmは太い」「明らかに違う」と
第三者の視点でいう

プリングルスを食べ放題食べるのは「主」に引きづられた結果であり、「ありのまま」ではない
「私のウェスト太いな」と観察するのも分析的な「客」の視点であり、「ありのまま」を見る視線ではない

「ありのまま」はすぐに消える
だから常に「ありのまま地点」にjump in しつづけ、
自分のエゴを放下しつづけなければならない
食欲全肯定、不摂生全受容が「ありのまま」ってことじゃない

けれど、人に欲があり、他者と比べてしまうのは、人の常であり、
それもまたわたしの「ありのまま」の一部として肯定してもいいのでは?
人間の業として、
「それ」もまた「それ」である

食欲があるのもわたし
他人と比べるのもわたし
ただ、それだけがわたしってわけでもない
ここに太いか細いか(誰と比べるかわからんから)知らんけど
あるものとしてこのウェストがあるのも、わたしの一部分であり、
その「ありのまま」を見つめられるのもわたしである

子どもの頃、何の思惑もなく全力で広場を駆けたように、
わたしが、まだ「ありのまま」にあることができるのもまた確か
あれもこれも、
それぞれに、確か
わたしたちはperfectでなくても、生きてはいけるし
本来はperfectであるというところでも、生きていける

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