スヌーピーで知られる『ピーナッツ』の作者、チャールズ・M・シュルツは言った。
「安心とは、車の後部座席で眠ることだ」と。
確かに同意する表現だが、最近は車に乗ることも減ってきたので、別の「安心」の例はなにかなと考えると、即座に、「冬の朝、ヘアドライヤーで服の中に温風を入れること」という例が浮かんでくる。
風には色んな種類があれど、服の中から吹き込まれた温風は、何度繰り返しても、そのつど、新鮮な安心感を運んでくれる。
僕にとって、「安心」とは「暖かさ」の別名である。
「暖かさ」が「安心」の別名なのは別に僕にとってだけでなく、また、人間にとってだけでもなく、サルにとっても同様である。
そのことは実験が示していて、ある子ザルに、「ミルクの出る、針金でできた母親像」と、「布でくるまれた、ミルクの出ない母親像」を与えてみると、ほとんどの時間、子ザルは後者の母親像に抱きついて離れないのだという。
子ザルにとってミルクは生きるために必要なものだが、それを追いやってでも、子ザルは「暖かさ」を求める。
触れて触って抱きしめることの大切さである。
それは哺乳類全体に共通する、「安心を与える暖かさ」なのだ。
サル同様、暖かさを求める人間は、歴史を通じて寒さを問題としてきたわけで、江戸時代を素材とする落語の中でも、ある旦那がシングルを卒業しついに所帯を持った理由を聞かれ、
「かかぁがいねえと冬、寒くって仕方ねえ」と答えるシーンがよくある。
結婚した理由を聞かれて、「暖を取るため」と答える男は21世紀では非難の的だろうが、人は、寒いから結婚するということも多分にあったのだ。
もしかしたら、少子化を加速させているのは、暖房器具という名のテクノロジーなのかもしれない。
スヌーピーの作者シュルツは、「安心とは、車の後部座席で眠ることだ」という言葉に続けて、
「前の席には両親がいて、心配事はなにもない。
でもね、ある時、その安心は消え去ってしまうんだ。
君が前の席にいかなきゃならなくなるんだよ。
そしてもういない両親の代わりに、君が誰かを安心させる側になるんだ」
と、続ける。
安心を与えてもらった者は、時がたてば、安心を与える側にまわる。
そして、その「安心」は与えてくれた人に直接返すのではなく、また別の違う人に送ることになっている。
人は「安心」という贈与をクルクルと大きな輪で回しているのである。
「かかぁ」の体温で暖を取っていた落語の中の旦那も、次は子どもに暖を与える側になるし、そもそも、「かかぁで暖を取っている」と言いつつ、かかぁと「暖をシェアしていた」のは明白である。
旦那にも体温がある以上、暖は一方的に与えるのではなく、与え・与えられる関係にある。
「かかぁに暖を与えている」のを無視し、「かかぁで暖を取る」と言うのが、江戸っ子の言いましである。
すでに江戸から長い時間が経った現在を見回してみると、新型コロナ、セクハラ、体罰、ネグレクトと、他人に触れることのネガティブ面ばかりが報じられる世になってしまっている。
しかし、接触による「暖かさ」がもたらす安心感は、生きるうえでの基本である。
まぁ、基本だからこそ、基本領域を犯してくるウイルス、セクハラ、体罰、ネグレクトの加害者が問題になるのだけれど、それは接触のアプローチが悪いのであって、接触自体が悪いわけではない。
触れること、温めあうことが忌避される世の中にはなりませんように。
暖かさの大切さをもういちど。