「うんこ漢字ドリル」というものがはやっている。
すべての漢字問題の例題を「うんこ」で作ったドリルだが、
累計で260万部以上売れているらしく、
最近は、「うんこ計算ドリル」も発売されたらしい。
子どもはうんこが大好きだ。
なんといっても、うんこにはエネルギーがある。
やっぱり”出す”っていうことにエネルギーがあるのだと思う。
人は口からものを”入れ”、お尻から”出す”。
子どもがうんうん、うんこをいきんでいる様は、
エネルギーを放出しようとする際の姿であって、
サイヤ人が元気玉をぶん投げる時と、同じ形をしている。
うんこはそれだけでエネルギーに満ちているが、
うんこ同様、ちんこもエネルギーに満ちあふれている。
子どもはうんこと同じくらい、ちんこも大好きなので、
「うんこドリル」の次は「ちんこドリル」を作ればこどもにウケるかもしれないが、
そこは、出版社からNGが出るだろう。
今の世の中では、うんこほど、ちんこは人前で大人が言っていい言葉ではない。
ここに書くのも本当は憚られるほどの言葉だ。
しかし、赤ん坊が便をすることが、そのまま赤ん坊の健康を意味するように、
男性器も、それ自体が生命力のシンボルであり、
ブータンやシッキムの家の壁には今も、
元気な男性器の絵が、大きく描かれており、
家の前には、大きな男性器のオブジェがぶら下げられている。
ちんこは、家族健康、家庭円満、子孫繁栄のシンボルなのだ。
勝手に「ちんこ」という言葉を自主規制して「男性器」とばかり呼んで、
ちんこの朗らかさを奪ってはいけない。
男性器を、学校の保健の授業で無味乾燥なものにしたり、
逆に、膨大なアダルト情報の中で、性欲の権化みたいにしてしまうと、
元来、ちんこが持っている、おおらかなエネルギーが忘れ去られてしまう。
うんこもちんこも、一面だけで語れるものではないのに、
変に自主規制していると、その多面性を失ってしまう。
そんな時代に、大人が「うんこ」だ「ちんこ」だと口にしていると、
人に信用されなくなる。
しかし、詩人などは、人からの評判を気にして、
自ら、ことばに規制をかけるようなことをしないので、
谷川俊太郎は、「うんこ」という詩も、「おしっこ」という詩も書いている。
さらにいうと、「おならうた」という詩も、
「なんでもおまんこ」という詩だってある。
「なんでもおまんこ」という詩は、谷川俊太郎の傑作の一つで、
読むと、この惑星を愛する気分にさせてくれるような詩なのだが、
詩の中で谷川俊太郎は、
丘も風も空も花も、なんでも女性器のようなものだと例え、
最後に、ぽつりと、「おれ死にてえのかなあ」と、つぶやく。
女性器のことを散々考えて、
最後に「おれ死にてえのかなあ」と思ってしまうのは、
たぶん、女性器が、死とつながっているからで、
男性器(ちんこ)や便(うんこ)が外へ外へ向かうエネルギーなのに比べて、
女性器は、命の根源の方に、「戻る」エネルギーを秘めている。
だれもがこの世には、女性器から出てきているため、
女性器のことを考えるということは、そのまま、
この世とあの世のつながりを考えることになる。
自分が命を持つ前、すなわち「死」につながっているのが女性器で、
その、ほの暗さは、男性器や糞の明るさとは全然違う。
「うんこ」や「ちんこ」と人前で口にすることはマナーの問題なので憚られるが、
「うんこ」を「便」と呼ぶか、「排泄物」と呼ぶか、「べべ」と呼ぶかで、
その扱い方は変わってくる。
その呼び名の多さは、それに対する多様な見方でもあるので、
時に「便」であって、「糞」であって、「排泄物」でもあるものを、
時に「うんこ」と呼び、「うんち」と呼び、「べべ」扱いすることは、大切なことである。
「うんこ漢字ドリル」で漢字がどれほど効果的に覚えられるのかは知らないが、
大人になれば、「便秘」や「介護での便」など、便の暗い側面を見なければならない。
こども時代は、大いに「うんこ」「うんこ」と連呼し、
うんこの明るい側面を見て、元気にやっていればいいと思う。