ゴミの分別方法は、市町村ごとに違う。
ペットボトルのキャップまで別で集めていることろもあれば、
燃えるゴミとプラスチックを一緒に出せる自治体もある。
日本人は、細々として努力が好きなので、
小さな分別にも精を出すが、
どの程度の分別が適切なのかは、よくわからない。
それぞれの自治体がそれぞれの基準でやっているということは、
どこかの自治体が無駄な分別をさせているか、
どこかの自治体が必要な分別をさせていないかのどちらかだ。
いずれにしても、問題が残る。
いや、それとも、
各市町村がバラバラの基準を採用することで、
一番最適な分別方法をみんなで探しているのだろうか。
エコ意識は時代によっても変わるし、
国によっても大きく変わる。
夏目漱石の小説「三四郎」の時代には、
汽車の窓から弁当箱を投げ捨てるのは普通のことだったが、
現代のシンガポールでは、
ガムを吐き捨てて罰金を取られるのが、普通のことだ。
タバコだって、どこでも吸ってどこでも捨てられていたのが、
今じゃ、どこに行っても禁煙、禁煙、禁煙だ。
批評家の小林秀雄が大学で講義をしていた頃は、
抗議の前にまずゆっくりタバコをくゆらし、
それを「教壇の机」でもみ消して、教室の床にポイと捨ててから
授業を始めるのが習慣だったという。
(そして、講義が終わると、生徒たちがそれを拾って吸っていたという)
そんな非常識が、常識の範疇だった時代だってあるのだ。
(人のシケモクを拾って吸うなんて、なんてエコ!)
何が適当なエコなのかはわからない。
昨日利用したマクドナルドなんて、
紙ゴミとプラスチックゴミを分別して捨てたのに、
中を覗くと、同じゴミ箱だった。
入り口は違うが、出口は同じ。
それを、表面だけつくろった似非エコ活動というか、
世間のエコ意識に配慮した苦肉の策というかは、
人それぞれ。
何が適当なエコなのかは、わからない。
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