ガチャガチャを回さなくなって久しいが、最近は、ガチャガチャの中身が様変わりしているらしい。
おもちゃの話ではない。
最近は、「親ガチャ」や「顔ガチャ」という言葉があり、子どもが親や顔を選べない事実を、運次第のガチャガチャに例えるのだという。
どの親のもとに生まれるかは運であり、いい親に当たった人はラッキーだし、悪い親に当たった人は残念な人生。
生まれ持っての「顔ガチャ」で、もしもSSランクの「レアガチャ」を引き当てでもしたら、それだけで人生アガったようなもの。
一生安泰なのだという。
「親ガチャ」も「顔ガチャ」も表現としては面白いが、どちらかというと「親ガチャ」の方が理解できる。
「顔ガチャ」も理解できないことはないが、「顔」は「親」ほど生き方を決定づけない。
そういうと反論も聞こえてきそうだが、「顔ガチャ」があるのならば、「スタイルガチャ」や「肌ガチャ」、「髪ガチャ」や「声ガチャ」も加えなくてはいけないし、「愛嬌ガチャ」や「可愛げガチャ」「主人公感ガチャ」などの「雰囲気ガチャ」も含めなければいけなくなる。
それはもはや、この世に生まれる前に回してきたガチャなのか、生まれた後に身に着けた性質なのかわからない。
外見は、後天的なものが影響している。
確かにこの世には、顔だけで食っていける人というのはいて、そういう人は、「ピアノだけで食っていける人」や「料理だけで食っていける人」などとは違い、なんの努力や積み重ねをしなくてもやっていける。
まさに「顔ガチャ」の恵みである。
世の親たちは、そういう現実があることを知っているため、子どもが少しでも器量よくあること、顔がかわいいことを望むが、顔がいいことが、本当に子どもの人生においてプラスになるかどうかはわからない。
野球の才能のある人がその才能にかまけたせいで薬物に手を出し、人生を台無しにしてしまうように、先天的な恵みに人はかまける。
つまり、美人はたいがい、自分の顔の良さにかまけてしまう。
人は、子どもの頃に、周囲から「良いね」と褒められるものを良いものだと思うもので、その良さが、「顔」のような外見であっても、才能であっても、性格であっても、周りから褒められるものは、自分の良さとして、死守しようとする。
「頭がいいね」と言われて育った子どもは「頭の良い子ども」でいようとするし、「かわいいね」と言われて育った子は、自分のかわいさを守ろうとする。
子どもであればあるほど周りの(特に親の)期待に沿おうとするが、それは、自分のものさしを他人に明け渡すことでもある。
大人が子どもを褒める性質のほとんどは、子どもが努力して手に入れたものではない。
かわいいとか、記憶力がいいとか、足が速いとか、手先が器用とか、やさしいとか、そういう性質は、先天的なもの。
そうした所与の性質を褒められた子どもは、大人に褒められようとその性質を自信にする。
所与のものに、こだわり、執着し、たまたま「ガチャ」で当たっただけのものに、寄りかかる。
小さい頃なら別にそれで不都合はないが、成長し、大人になるに従って、生まれ持った性質には陰りが見え始める。
子どもの頃に褒められた、顔も、才能も、能力も、ガチャガチャで当てた景品が色褪せていくように、時の移ろいとともに失われる。
自分が拠り所としていたストロングポイントが、歳とともに足を引っ張るのだ。
しかし、そのことに気づいたとしても、バブル期の元成功者がお金にしがみつくように、定年退職した元大会社の重役が定年後も「偉さ」にしがみつくように、長年の習性は、簡単には変えられない。
そして、「かわいい」を拠り所としてきた元美人は、以前存在した「かわいさ」にしがみついてしまう。
まあ、それでも、この世で美人がもてはやされるというのは動かしがたい事実なので、「美人の方が不細工よりも得」だという話を否定はしない。
美人は得であろう。
しかし、仕事柄、色々な子どもを教えていると、美人よりも得だなと思う子がいる。
それは、純粋な子である。
純粋になにかに打ち込んでいる子には、自然と周りから助けの手が伸びる。
そういう子は、ものごとが悪い方向に向かわない。
意志ある純粋な子には、外見の良い子よりも安泰だなと思わせるものがある。
おそらく世の中(男社会?)は、気楽な場面においては、美人にやさしいが、自分の身が少しでも切られそうな場面では、美人のアドバンテージを剥奪する。
差し伸べていた手を、さっと引っ込め、美人よりも己を守る行動に(男は?)走る。
外見の良さは、大事な場面で、あまり意味をなさない。
そう思えば、「顔ガチャ」でアタリを引くよりも大事なことがあるといえる。
「顔ガチャ」でそうだということは、「親ガチャ」でも「才能ガチャ」でも同じことだろう。
「神様によって与えられたものは、自分に自信を与えてはくれない」
そう、バイオリニストの高嶋ちさ子も言っていた。
美貌や才能によって得られた自信は、まやかしである。
本当に自分が生きていく上での自信がほしければ、自分の手足を動かして、経験的に得るしかない。
生まれながらに、SSランクの「レアガチャ」が当たった人はたしかにラッキーであろう。
しかし、古代ローマの時代から、人間は、自分の得意なことによってつまづいてきた。
自分に恩恵を与えてくれていた外見の良さが、いつのまにか自分の足を引っ張っていることは、よくある話である。
生まれる前に回した「ガチャ」とはそういうもので、アタリだと思っていたものが、実はハズレで、逆に、ハズレだと思っていたものが、いつの日か、自身を支えるものになることもある。
カプセルの中はよくよく見る必要がある。
そして、それがアタリかハズレかは、ガチャガチャの解説書ではなく、自分自身が決めるべきなのだ。