日本にスポーツを教えにくる外国の指導者は、
「日本の選手は、工夫が足りない」と、よく言う。
基本はしっかりしているし、教えたことはよくこなすが、
勝つための工夫やアレンジに難がある、と。
いつも基本を大事にしちゃう日本人の悪いところだ。
サッカー関係者の中には、「日本の選手は技術では負けてない」
「足元の技術は世界でも通用する」と胸を張る人がいるのだが、
前全日本代表監督のオシムは、それを、
「サーカスの技術」と言って、切り捨てていた。
曲芸用の技術としてはすごいが、
サッカーは曲芸ではない。
必要なのは、走りながら、相手に邪魔されながら繰り出す技術であって、
立ち止まって自分のタイミングで披露する技術ではない。
それを技術とは、サッカーでは呼ばない。
そう考えるオシムは、普段から、選手に考えさせる練習ばかりさせていた。
”練習のための練習”になることを最も嫌っていた。
似たようなことは、確か、古武術研究の人も言っていて、
「世間には演習しかない」と、本にあった(ウル覚え)。
武道を習う人は、まず基礎(型)を習い、それから演習を習うのだが、
実践に”基礎”というものは、”ない(存在しない)”。
基礎というのは、実践(演習)の中にいた人が、
誰かに伝授するために、エッセンスとして取り出した部分。
だから、教わる人は、基礎→応用の順番を当たり前だと思っているが、
本当の流れは、演習→基礎でしかない、と。
ここを見失うことから、型の形骸化や、
基礎に忠実すぎて、融通のきかない形などが生まれてくる。
「もともと、融通をきかせるために「型」を作ったんやけどなぁ・・・」
多分、最初に型を作った人たちは、そう思っている。
近代日本の知性・福沢諭吉は「実学」を重んじていた。
「実学」は、そのままの意味をとれば、「役に立つ学問」ということだが、
本人は、本の中で、
「実学」とは、”碁・将棋の定石や槍・剣術の型のようなもの”、
と、言っている。
「実学」=型のようなもの。
一見矛盾するようだが、
社会や人生で役に立つための学問の”型”をちゃんと学べ、と言ったのだ。
福沢は、口先だけで役に立たない漢学者たちを批判しつつ、
自分は、膨大な量の漢学書や蘭学書を”素読”するという、
”型通り”の勉強で基礎を作っていった。
「実践(演習)のための基礎」ということをわかっていたのだろう。
だから、福沢諭吉の言っていることは、
オシムさんの言っていることと同じで、
ふたりとも、
「練習のための練習すんな、馬鹿!」と言っているんだろうと、解釈している。
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