スポーツっぽい

 

まもなく夏の高校野球甲子園大会予選が始まる。
スポーツが好きだ。
スポーツはいい。
勝ち負けがはっきりしている分、
勝った喜びも負けた悔しさもはっきり実感できる。
トーナメントってのもいい。
一回でも負けたら終わりという「後のなさ」が、
否が応でも、試合の緊張感を高める。

勝ち負けのはっきりしているスポーツは見ていて楽しいが、
社会の中で、スポーツのように勝ち負けがはっきりと出る場面は少ない。
恋愛は、上手くいけば二人とも勝者で、上手くいかなければ、二人とも敗者。
子育てというゲームは、いつゲームセットになったのかすらわからない。
会社の仕事にしても、
チームとしての成果や会社としての業績は明確に数字に出ても、
個人としての成績ははっきりと数字に出ないことが多い。
(出たとしても、それが業界全体で何位という数字が出ることはない)

ここ数年、スポーツビジネスの影響が大きくなったせいか、
「パフォーマンス」や「コーチング」など
スポーツ用語が社会の中でも当たり前に使われるようになってきた。
そうなったのは、社会の中にスポーツ的な要素があるからだが、
実のところ、「スポーツ」と「社会」は、まったく違う。
実社会には、「勝ち」「負け」を決めるためにみんなが従うような
共通の「ルール」も「スケジュール」も「審判」も存在しない。
皆が、一つの、統一された競技を一緒にやっているわけではない。

そのように「スポーツ」と「社会」は違うので、
素晴らしいアスリートとしての一面を社会で見せる人が、
必ずしも素晴らしい人間というわけではない。

スポーツ選手の人間性と成績には、何も関係がない。

何も関係がないはずなのに、それでも、アスリートとして素晴らしい活躍をした選手が、
競技を辞めた後に堕落する姿を見ると悲しくなってしまうのだが、
その原因の一つは、
社会がまったくスポーツっぽくないということにある。
社会には、わかりやすい「勝ち負け」がないので、
わかりやすい「勝ち負け」の世界で生きてきた人は、
「勝ち負け」のない世界で、どう生きればいいのかわからない。
社会にあるのは「勝ち負け」ではなく「良し悪し」だ。
なにが正しくて何が正しくないのか、
何が必要なことで何が不必要なことなのか。
それを、周りの人と一緒に決めるのが社会だ。
試合結果や個人成績のような数字が決めてくれるわけではない。

スポーツ界はとてつもなくシビアな世界だが、
意義を問われない世界でもある。
「三冠王って本当に取る意味ある?」
そんな疑問を抱くスポーツ選手は、スポーツ選手ではない。
結果がすべて。
それがスポーツ。
でも、「社会」は結果がすべてではない。
これまでの日本社会もまったくスポーツっぽくはなかったが、
スポーツ用語が普通に使われるようになるこれからの社会も、
まったくスポーツっぽくはない。
何が正しくて何が価値なのか”
これまでのように社会や世間が決めてくれず
自分で決めていかなければならないという意味においては、
これからの社会は、更に、スポーツからはかけ離れていく。

 

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