トーマスとドラえもん

「きかんしゃトーマス」が12年ぶりのリニューアルということで、イメージが一新された。
新しい「きかんしゃトーマス」は、今までのトーマスより、可愛らしくて、愛らしくて、ファンシーな印象である。
それはもう、以前の、ぎょっとするようなでかい顔を車両の先頭につけた、口の悪い労働者列車たちが立ち回る物語ではない。

昔がよかったなんて言うつもりはないが、初期の「トーマス」の列車に貼り付いていた顔は、もっと人間味があった。
しかめっ面だったり、不機嫌だったり、苦虫を噛み潰したような顔だったり、疲れたおじさんみたいな顔だった。
(体を酷使して働くリバプールの労働者たちを思わせた)

それに比べ、最近の(そしてリニューアルされた)「トーマス」たちは、元気で可愛らしく、はつらつとしている。
トットハムハット卿という黒高帽子をかぶった支配階級にこき使われて、嫌々働いていたように見えたトーマス達は、今や、自分たちの仕事に誇りを持って、自発的に働く機関車である。

それは、時代の要請だろうか。
それとも、製作者の願いだろうか。

ただ、「機関車トーマス」を見ている子どもたちが、辛気臭い顔して動く機関車たちをアニメで見たいかと言われてば、答えは「NO」だろう。
疲れたおじさんなんか現実だけで十分である。
アニメの中のキャラクターたちは、元気ではつらつとしていなければならない。
そうしなければ、テレビの前の子どもたちにはウケが悪い。

アニメのリニューアルといえば、国民的アニメ「ドラえもん」も、数年前に声優陣が一新され、昭和の「ドラえもん」に比べると、画質と動きの滑らかさが比較できないほど改善した。
それはそれで技術進化による単なる変化なのだが、新しい「ドラえもん」を見ていて(ほとんど見たことはないけど)一点だけ気になるのは、のび太の泣き方である。
新しい「ドラえもん」では、のび太がドラえもんに泣きつく時の泣き方が、「甘い」のである。
泣き声に、「甘さ」や「媚び」が混じり、相手にまとわりつくような甘ったるさがある。
以前ののび太の涙はもっと乾いていて、さっぱりしていた。
ドラえもんがポケットから道具を出してくれようもんなら、一瞬で泣き止むぞというキレの良さがあった。
かつて、滝のような勢いで流れていた涙は、今や、湿っぽい涙に変わった。

これは、時代の要請だろうか。
それとも、現実の反映だろうか。

今の子どもが、のび太のような泣き方をするのか。
それとも、のび太のマネを今の子どもがするようになるのか。

どちらにしても、のび太の涙はカラッとしていてほしい。
それが子どもの良さである。

子どもは大人よりも喜怒哀楽が表に出るし、コロコロ感情が変わる。
さっきまで泣いていたかと思えば、次の瞬間には笑っている。
すぐに感情が変わるということは、いつまでも感情に引っ張られないということでもある。
それは、子どもが、大人に比べて、「体」で「五感」で、生きているということである。
「目」で見たもの「手」で触ったものに触発されて、その瞬間を、子どもは生きる。
それに対して大人は、目の前のものがどんなに変化していき、時間が経とうとも、自分の中の「感情」を引きずって生きる。
それは、大人は「からだ」ではなく「こころ」で生きているからである。

子どもであるのび太が毎日のようにジャイアンにいじめられても悲壮感が漂わないのは、のび太が「こころ」の世界だけに生きていないからだろう。
のび太の泣き声に「甘え」が交じれば、それは、感情を引きずることになり、「こころ」だけで生きることになり、ひいては、ドラえもん依存になる。
のび太には、ドラえもんに泣きつくが、ドラえもんが道具を出してくれないと、「なにさ」と言って家を出る開き直りがある。
道具があれば使うし、なきゃないでどうにかするし、道具を使っても最後は道具に溺れるし、でも、そこで得た教訓もすぐに忘れる。
それがのび太である子どもの良さである。
のび太は「からだ」の世界にいるから泣いてても元気なのである。
のび太を「こころ」の世界に連れて行かないでほしい。

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