高校生の時、アメリカのシアトルにいたことがある。
日本の街しか知らなかった高校生がアメリカで驚いたことの一つは、
ホームレスが街にたくさんいたことだ。
日本でも田舎の方に住んでいた僕は、
東京や大阪のホームレスの人たちを知らなかったし、
外で寝ている人をほとんど見たことがなかった。
もう少し大人になって、アメリカの街をいくつか見た後で、
どれだけシアトルが綺麗で、
ホームレスが少ない街だったのかを知ることになるのだけど、
高校生の僕は、ホームレスの存在自体が新鮮だった。
ホームレスの存在が新鮮に思えても、
ホームレスの人と接する機会は特にないし、
教会が行っているホームレスの人向けの炊き出しに
ボランティアとして参加する気持ちもなかったのだが、
ある時、まちなかのデパートで、
あるホームレスのおじさんと、バチッと目があってしまった。
黒ずんだ顔のおじさんは、デパートの出入り口の椅子に座っていて、
その時、手にドーナツの紙袋を抱えていた僕は、
おじさんと目があうなり、とっさに、
「あ、このドーナツをあげればいいんじゃいか」と思い、
「このドーナツ、あげるよ」と紙袋を差し出すと、
おじさんは、やんわりと、
「今、お腹いっぱいだから、いいよ」と断ってきた。
断られることを想定していなかった僕は、
デパートを早足で出て、街をあてどなく歩きながら、
「そうだよな」とひとり、つぶやいていた。
ホームレスの人だって、お腹減ってたら何か食べたいだろうけど、
お腹がいっぱいの時は、別に食べ物はいらないよな。
もしかしたら、アジア人のガキに施しを受けるのが癪だった
というだけだったのかもしれないけど、
その時、僕は、ホームレスの人も、
一人ひとり違うんだということを知った。
お腹が減ってなければ食べ物なんていらないホームレスの人もいるし、
お腹が減ってなくても食べ物をキープしておきたいホームレスの人もいる。
(後に、そういうホームレスの人と会った)
「大学生」や「主婦」や「老人」と同じように、
「ホームレス」と、言葉でくくってしまうことはできるけど、
その中の一人ひとりは、みな、それぞれ、違うのだ。
「タグ」で、いっしょくたにしてはいけない。
ホームレスだから邪険に扱っていいというわけでもないし、
ホームレスだからケアしてあげなければいけないわけでもない。
ホームレスの人の中にも、
気が合いそうな人もいれば、
絶対気が合わなそうな人もいる。
それは「家で寝てる人」でも、
「路上で寝てる人」でも、同じだ。
家でも路上でも、結ぶ関係は、常に、パーソナルなもの。
特に、路上で結ぶ関係に、利害関係などは発生しようがない。
だから、ピンとくれば話しかけることもあるし、
ピンとこなければ、無視することもある。
利害の発生しない場所での判断基準は、利害ではなく、感覚だ。
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