マスク社会

3月の中旬から「屋内でもマスクを着用しなくてもよい」というアナウンスがあった。
ようやくマスク生活が終わるようだ。
しかし、一度マスクを手にした日本人は、「マスクを外していいよ」と言われても、そう簡単にマスクを手放せないかもしれない。

思えば、マスクがマストになる以前から、日本人はマスクが大好きだった。
冬になると、「ウィルス予防」「咳マナー」を言い訳に、多くの人が通勤・通学で、または、仕事や学校で、マスクを付けていた。
確かにマスクをつけていれば、パーソナルデータのたくさんつまった顔の大部分を隠せるという理由から安心できるし、女性は、化粧を簡素化できるという利点だけでなく、変な男に目をつけられるという防犯からの利点もあった。
知らない男性との視線を介した無言のコミュニケーションを避けるために「とりあえずマスクしとこっ」という防犯手段は、欧米人(というか日本以外のほとんどの国)には理解されがたいようで、新型コロナ蔓延前には、なにか重病を持つ人以外日常的にマスクをしない外国においては、日本のマスク光景は異様に映っていた。

欧米(というか特にアメリカ)でマスクが忌避されるのは、それがセキュリティに関わるからである。
欧米では人と会う際に握手をするが、それは、
「私は何も武器を持っていませんよ。敵ではありませんよ」というメッセージを送るためでもある。

個人主義社会というか、「家から一歩外へでれば、そこは基本的に危険な場所である」と考える彼らからすれば、「私はあなたの敵ではない」というシグナルを送ることは、重要なセキュリティ行動である。
日本人は周りの人によく気を遣うと言われるが、外出時に人と目があった際に愛想を振りまこうとするのは、日本人ではなくアメリカ人である。
日本人は自分が所属するコミュニティ内では愛想を振きつつ生きているが、外に一歩出ると、誰のことにもかまうことがない。
「5人組」「隣組」制度に縛られることのない自分のコミュニティ外においては、「旅の恥はかき捨て」放題なのである。
それに対し、アメリカ人は、外で人と目があえば、知らない人であっても、ニコっと笑いかけてくれる。
これも、握手同様、「私はあなたの敵ではないよ」シグナルである。
日本では愛想を振りまくと「危ない」可能性があるが、アメリカでは愛想を振りまかないと「危ない」可能性が出てくる。

そういうシグナルを日常的に送りあっている彼らにとって、マスクをするということは「私は敵ではない」というシグナルを送れず、「私は敵かもしれないよ」という情報未送信リスクを残すことになる。
日本人は、マスクをすると表情が読まれないので「気楽」だと言うが、表情を読ませないことが「リスク」になってしまう社会も外国には多くある。
そういう社会では、マスクは自分を守るものではなく危険にさらすものにさえなりうる。

実際にマスクがコロナウイルスの蔓延をどれほど防いでいるかは、私は専門家ではないからわからないが、「マスク」と「感染」を天秤にかけ、彼らは「感染」を選んだともいえる。
それほど、マスクは、彼らの日常のコミュニケーションを変えた。
特に、新型コロナの蔓延によって、握手という基本コミュニケーション手段を封じられた彼らにとって、マスクで表情を読むことまで封じられるという恐怖は大きかっただろう。

この3月以降、オフィシャルにはマスクは不要となるが、日本でマスクをする人々は残るだろう。
それが人々にとって何らかの「ガード」になる限り、マスク社会は終焉しない。

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