ユーモア

バスの中でじゃがりこ食べながら、中学・高校の国語の授業で「大喜利」を教えられないかを考える。
国語は小説や詩などの文芸作品や、古文・漢文のような古典、論説文などの論理を扱ってるわけだけど、ユーモアを正面切って扱ってないのはどういうわけか。
こんなにも、お笑いの文化がある国だのに。

でも、学校の授業で「ユーモア」を教えないわけはわかる。
いかにインターネットが発達して、生徒が自分で学べる時代とはいっても、英語でも美術でも、先生ってのは、生徒よりもその分野に長けてないとだめなわけで、それが「大喜利」とか「ユーモア」ってなった時に、「私、ここの生徒の誰よりも面白い答え出せますけど」って言える先生、ほぼ皆無だと想像する。

ただ、実際難しいだろけど、大喜利やユーモアを「センス」としてじゃなく「スキル」として教えることは、良いと思う。
笑うって大切だし、それが大喜利じゃなくても、落語でもジョークでもモノボケでも文章的な諧謔でもなんでもいいけど、ユーモアとか笑いは、「ものの見方」のことだから、生きていく中で、自分の「ものの見方」を変えたりずらしたりすることができれば、生きやすくなったり、人とうまくやれたりもする。

ただ、どんな素敵なアーティストの絵や小説家の小説でも、学校の授業で取り上げられるとなぜか色褪せちゃうのと同じで、笑いも、授業内で扱うと、面白みが半減するんでしょうね。
ユーモアは、カリキュラムの外に敢えて置いとくべきなのかもしれません。「文化」だからね。
なんでも学校に任せちゃいけんね。
だとしたら、学校外の、日常会話で、皆、もっと、ユーモアを頑張るべきだね。草の根的に。

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