思春期は変化が激しいお年頃なので、
同じ17歳だとしても、広い幅がある。
家庭環境がそうさせるのか、
大人みたいに現実的にものを考える子がいる一方で、
まだ小学生の延長で生きているような子もいる。
何かを教えても、
ぼーっとして、まったく集中できない子もいれば、
要領よく先に進んでいく子もいる。
グループ単位で活動をする場合は、
最低限の説明を聞いて、やるべきことがすぐにわかる、
「一を聞いて十を知る」ような子がいると、
ものごとはだいぶスムーズに進むので、
大人にとって、そういう子は有り難い。
「一を聞いて十を知る」ような子は、大人にとっては楽で、
「一を聞いて、一のこともわからない」子からすると、
思考力、想像力のある子だともいえる。
ただ、「一を聞いて十を知る」ような子が大人になる過程で、
だんだんと、「一を聞いて十を知った」気になり始めることがある。
本来は、一つ一つ違うはずのものや人を、
自分が知っている知識や事例に当てはめて、
「一」を見ただけなのに、「十」わかった気になってしまう。
始めに触れた「一」が、知識として持っていた「一」と同じだと、
残りの「九」もおそらく同じだろうと思いこむ。
「一を聞いて十を知る」ような”頭の良い子”には、
そういう落とし穴もある。
厳密にいうと、私たちは、「一を聞いて十を知る」ことなどできない。
「一」は「一」でしかなく、「十」ではない。
私たちにできることは、
「一を聞いて十の”可能性を考える”」ことくらいだ。
「一」から考えられる「十」のことに考えを巡らす。
「一」からすぐに「十」を決めつけずに、
「十」の可能性や、「十」の関連ごとを考える。
そのくらいしか、私たちにできることはない。
生物学者の今西錦司氏は、
学生が論文や本からの引用で自説を補強しようとすると、
「君、それは自分の目で見たことか」
と、人の頭で考えたものに対して容赦しなかったという。
「一」を読んで、さも、自分が「十」考えたような顔をするな。
自分の頭で考えてきた人は、”借り物”を許さない。
そもそも「一を聞いて十を知る」という時、
その 「一」すら、誰かに、”聞いた”「一」だ。
誰かに聞いただけの「一」から導き出した「十」なんて、
大いに、間違っている可能性がある。
「間違った一」を聞いて十を知ったつもりになることは、
「大いに間違った十」を導き出すことにつながる。
まだ思春期の子どもたちは、
「一を聞いて十を知る」よりも、
「一を聞いて、二を自分で調べに行く」くらいでちょうどいい。
自分の足で、「二」を調べに行く子は、
変な落とし穴にはまることもないだろう。
コメント