一汁一菜という教え

料理研究家の土井善晴さんという人がいる。
「一汁一菜」を提案している人だ。
その土井さんが、「レシピに頼ると感性が育たない」ということを言っていて、なるほど、かつてはよく聞いたような話だけど最近はめっきり聞かなくなったような話だなぁと思った。

土井さんが言うには、レシピには「分量」が書いてあり、それは、大勢のための料理を作る際には必要となるんだけど、一人や家族分の料理を作る場合は、あまり意味がないものであると。
たとえ「分量」通り計量しようとしても、目の前の食材は、同じ「一個」でもそれぞれ大きさも形も違うし、食べる側の人間の舌も、朝と夜では違うのに、すべてを「計量」し、レシピ通り作ろうとしても、おいしいものはできないということ。
だから、レシピに頼っちゃうと、「感性」が育たないのだと。

レシピは「情報」なので、それに頼れば、大体おいしいものは作れるし、作る相手が「集団」の場合には、とても効力を発揮する。
でも、レシピは「情報」でしかないので、それを追いかけ回していると、肝心の「感じること」がおろそかになる。
おいしいっちゃおいしいけど、今、本当に食べたい味かと言われれば、違うような、ということである。

「おいしい」というのはどこまで言っても主観的なもので、ミシュランの星付きレストランの料理も風邪をひいていればおいしくないし、皆が寝静まった深夜に食べる油ギトギトラーメンも、朝8時ではおいしく感じない。
おいしいは自分の感じ方に左右される。

それと同じように、「楽しい」や「嬉しい」のような満足感や幸福感もどこまで行っても主観的なものなので、社会的に良いとされていることとズレが生じることもある。

ソクラテスは「汝自身を知れ」と、2500年間ずっと、口酸っぱくして言っているわけだけど、僕らはいくつになっても、「自分」を知らずに、「よそ」ばかりを見ている。
日本のお母さんも、ソクラテスと同じように、子どもが小さい頃から、ことあるごとに、「よそはよそ、うちはうち」と言ってきたわけだけど、これも、煎じ詰めれば、「あの子はあの子」「わたしはわたし」という、ソクラテスの箴言と同じく、「自分自身」に向かう話になる。

ただ、日本は母子のつながりが強すぎるので、「よそはよそ、うちはうち」の「うち」がいつまでたっても「わたし」と「あんた」に分かれず、ずっと「母」と「子」がくっついてしまっているのが問題なので、母親はどこかのタイミングで、自分と子どもを引き離し、「あんたが”幸せ”かどうかはあんたにしかわからない」という諦めの境地に達しなければ、子どもが成長しない。

土井さんが「レシピに頼ると感性が育たない」と言ったのは、自分の舌を通してしか美味しさは感じられないのだから、レシピに踊らされるなということである。
それをソクラテスと世のお母さんとの話とつなげると、親の舌を通してもあなたは美味しさを感じられないし、世の中の舌を通してもあなたは本当の美味しさを知ることはできないということである。

美味しさを感じられるのは自分の舌だけなのだから、まずは、自分の舌のことをよく知るべきなのだ。
土井さんを勝手に代弁すれば、「汝自身の舌を知れ」である。

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