「中二病」という言葉がある。
大人になっても中学二年生のように、
漫画やアニメの主人公のような振る舞いをする人のことで、
普段の会話の中で、
アニメのセリフを言ってしまうような人に向けられる。
「物語」の中に生きている「中二病」という人たちは、
揶揄されることがほとんどだが、
人は「物語」の中でしか生きていけない生き物でもある。
人生で遭遇する「不幸」なできごとに
「不幸」以外の「意味」をつけてくれるのが「物語」であり、
不幸な結果を招いた「原因」を指し示し、
人生にわかりやすい「流れ」を作ってくれるのも「物語」だ。
人は、日々を「物語」にすることで、
どんな不条理なことも消化して、前に進んでいく。
心理学者の河合隼雄と作家の小川洋子さんの共著
「生きるとは、自分の物語をつくること」
という本には、そういうことが様々、語られている。
ただ、「中二病」という言葉が揶揄になってしまうのは、
彼らが持っている「物語」が、あまりに独りよがりだからだ。
自分の中で誇大妄想的に大きくしすぎた物語に、
周りがついていけず、孤立する。
共有できない「物語」に、人は距離を感じてしまう。
先日、ある学生が皆の前で、自分の祖母の死について語っていた。
人前で自分の体験を語ることになった少年は、
涙ながらに自分のばあちゃんの死の大きさを語っていたが、
声を震わせ話すその姿は、さながら、悲劇のヒーローだった。
悲惨なばあちゃんの死を受け入れ、
それを乗り越えていく少年の成長物語の中で、
死んだばあちゃんは、さながら、
彼のストーリーを盛り上げるためのモブキャラだった。
「物語」でものを語ることはたやすい。
わかりやすいし、人に伝わりやすい。
ただ、人の”生き死に”は、
一つのストーリーで語れるほど単調なものではない。
色んな側面があり、色んな人の、色んな感情が入り交じる。
人は、他人の物語の「前フリ」のために死ぬわけでも、
他人の成功物語の「ダシ」に使われるために死ぬわけでもない。
17歳だろうが71歳だろうが、
人の死を「ダシ」に使ってはいけない。
本当に大事な記憶を簡単な物語にして人に語っていると、
「生」はどんどん安くなる。
自分の生を安売りして、いいことなどなにもない。
詩人の谷川俊太郎さんの「夜のラジオ」という詩には
「生きることを物語に要約してしまうことに逆らって」
という一節がある。
生きることを物語にすることは容易いが、
容易いだけに、本当の解決にはつながらない。
苦しくても、自分が直面した問題やできごとを
心のなかに留めておかないと、
本当の意味で、
それがどういうことだったのかを知ることはできない。
物語にするということは、処理するということだ。
それ以上、そのことについて考えないために「物語」にする。
大切な問題を処理するために簡単に「物語」にしても、
その大切な問題は、時が経てば、再び、「問題」として戻ってくる。
人生を「物語」にするには、
その「物語」に見合った、
適正な大きさと、適正な時期というものがあるのだろう。
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