高校生が文化祭に向けて演劇の準備をしている。
最初は和やかに準備を始めていたクラスメートたちも、
脚本が出来上がると、
その内容や劇の方向性について異論を出し始める。
最初は、それらのすべてに対応し、修正を試みていた脚本担当の男子も、
最後は耐えきれなくなって、咆哮とともに、さじを投げた。
「やってられっか!
だったら、お前らが書けよ!」
スポーツや勉強とは違い、
脚本は、面白さの尺度が測りにくい。
誰もが自分の中にある自分なりの面白さを持っているので、
なにかと口をはさみたくなる。
どこまで口をはさむべきか、まだ微妙なラインが読みきれない高校生は、
思い思いに意見し、そのすべてが詰め込まれた脚本は、
ただただ膨れ上がり、収集がつかなくなっていく。
皆に勝手な意見を投げられたその男子生徒には大いに同情するが、
さじを投げても、舞台本番までの時間は、刻一刻となくなっていく。
投げられたさじが床に落ちたままでは、脚本は完成しない。
脚本担当の男子に投げられたさじは、
だいぶ長い間、誰も拾わず、ずっと床に落ちたままだったが、
業を煮やした一人の男子生徒が、責任感から渋々拾い、
一人でなんとか台本をまとめあげた。
自分の睡眠時間を削ってまで友達とクラスの尻拭いをしたその生徒は、
みんながやらない仕事を自分が代わりにしてあげたつもりだったが、
思ったよりもみんなが褒めてくれないことに愕然としていた。
「人って、自分ではやらないくせに、褒めてもくれないんですね」と。
(かわいそうなので、あとで、十分に褒めてあげた)
コミュニケーション経験の少ない高校生たちは、
人にぶつかったり、
集団と折り合いがつかずに凹んだりする。
そのぶつかり方には十代でもすでに個々の特徴が出ており、
これから歳を重ねていっても、
今と同じように人とぶつかっていくのかもしれないな、と思わされる子も少なくない。
自分の主張をクラスメートに押しつけすぎて問題を起こす子は、
社会に出ても、同じようなことで問題を起こす可能性があるし、
クラスメートの意見に流されすぎることで自分を追い込んでしまう子は、
社会に出ても、同じようなことでつまづく恐れがある。
高校生は、まだ成長の途上で、
性質や能力はどんどん変化していくので、
それが杞憂であればいいなと思うが、
集団との関わり方や、他人との距離の取り方に関しては、
「楽観」ではなく「悲観」が先に顔を出してしまう。
「その問題は、君がこれからずっと取り組む問題かもしれませんね」
心の中の須賀敦子は、そっとつぶやく。
人は人とのつきあい方に生涯悩み、
その悩みの萌芽は、思春期にすでに始まっている。
ある日本人作家は、その問題を違う言い方で表現する。
「ある問題を避けても、その問題は、形を変えてまたやってくる」
自分に降りかかってきた問題は、
自分でうまく回避したように思っても、
状況や登場人物を変え、構造はそのままに、
また、自分の前に現れる。
だから、個人的な問題とは、
どこかで蹴りを付けなければいけないんだと。
アメリカの大作家、マーク・トウェインは、
「歴史は、繰り返さないが、韻を踏む」と言った。
歴史は同じことを繰り返すわけではないが、
似たようなことを繰り返す(韻を踏む)のだと。
その「歴史」を「人生」に置き換えれば、
「人生は繰り返さないが、韻を踏む」となる。
まったく同じようなことが人生で繰り返されることはないが、
似たようなことは何度も繰り返される。
韻を踏むように。
そう思えば、脚本を途中で投げた子も、
脚本を拾ったのに誰からも褒められなかった子も、
今後、同じような問題にぶつかるかもしれない。
人や集団との軋轢に対する対処法や避け方は大人として教えることはできるが、
蹴るをつけるのは、自分でしかできない。
周りの大人がしてあげられることは、案外少ない。