今様

「舐達磨」というHIPHOPアーティストがいる。
彼らの歌を聴いていると、「経文」みたいだなと思うことがある。
彼らは大麻所持の罪かなにかで現在、服役中であり、以前も、金庫泥棒かなにかで捕まっているので、決して褒められた人たちでなく、「お経」とはほど遠いところにいるような人たちなのだが、歌だけ聴いていると、「お経」のようだと感じることがある。

平安末期に後白河法皇によって編まれた『梁塵秘抄』には、遊女によって舞い、歌われた「今様」という形式の歌が納められているが、今様とは流行歌のことであり、今でいうとHIPHOPのようなものである。
当時のHIPHOPが時とともに失われていくのを嘆き、書き残しておこうと考えたのが時の法皇、というのがまたクレイジーな話なのだが、後白河法皇は御所に遊女を呼び、喉が潰れるまでうたの稽古をするような人で、今の法皇観からすれば異様である。
今のNHK大河では、西田敏行が怪演していると聞くが、見ていないのでよくわからない。

『梁塵秘抄』でもっとも有名な歌は

遊びをせんとや生まれけん
戯れ(たはぶれ)せんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば
我が身さえこそゆるがるれ

という歌だろう。
これは、子どもの童心的な遊びを祝いだ歌と見なされている。
しかし、この歌を詠み、詠ったのが遊女だということから考えると、遊女が子どもの純粋な姿を見ながら現在の自分を反省的に見ている歌と考える人もいるし、純粋に遊んでいる子ども自体がこれから遊女の世界に入っていく定めと知り、悲哀的な目で見ている歌と見る人もいる。
どちらにしても、牧歌的な童心賛歌ではなく、社会のアウトサイダーから見た悲しき視点である。

そう思えば、HIPHOPグループ「舐達磨」の歌は、「経文」というより、こうした、遊女や旅芸人、白拍子、また、種田山頭火や尾崎放哉など、社会のはずれにいる人達が詠んだ歌の系譜につながるものである。

むしろ、現代の「経文」は、北海道のHIPHOPクルー、The Blue herbが歌う歌である。
東日本大震災で残された人たちに対しても、語り継ぐ人がいなくなりつつある先の戦争に対しても、きちんと向き合い、「鎮魂歌」として歌い残す姿勢は、ほとんどすべての坊さんよりも死者と生者に対して真摯な向き合い方をしている。
『梁塵秘抄』の中のうたの多くが、仏教に関する「法文歌」であったことを考えると、もし、現代に後白河法皇がいて、『梁塵秘抄』が再び編まれるとするならば、そこにHIPHOPの歌はいくつも入るだろう。

当時、後白河法皇は、「今様」が消えゆくことを危惧して書き残したということから推測すると、『梁塵秘抄』で編まれたうたは、時のヒットチャートに載るような音楽ではなく、今で言えば、「昭和の名曲」のような、だんだんと人々の記憶から消えゆく音楽や、HIPHOPのような、一部の層にしか届かず、埋もれゆく音楽だったのかもしれないと思う。
作者の貴賤上下を問わず集められた平安時代の『梁塵秘抄』は、リアルを歌うことを常とする平成・令和のHIPHOPと、時を越えて響き合っている。

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