安倍晋三元首相の葬儀を「国葬」にしていいものかどうかの問題でごたごたしているらしい。
また、自民党が党の党員と創価学会とのつながりを調査した際に、その中に安倍元総理に関する調査が入っていなかったということも、さらに問題を大きくしている原因のようでもある。
しかし、そのことがことさら話題になっていないことを考えると、死んでしまった人の墓は暴かないのがマナーと日本人は思っているようでもある。
安倍元総理が射殺されて数ヶ月が経つが、犯人が捕まった当初、動機がまだ明らかになっていなかったため、岸田総理は、「これは、民主主義を守る戦い」であるというスタンスを取っていた。
しかし、犯人のバックグラウンドが次第に明かされるにつれ、そのトーンは消えていった。
そして、犯人の動機が、個人的な家族の宗教問題にあったことと、安倍元総理自身がその宗教団体と関係を持っていたことがわかると、この事件が「何に対する戦い」にすればよいのか自民党はよくわからなくなり、また、事件の究明をするはずの自民党の党員自身が創価学会とズブズブな関係にあったことで、今回の事件の総括は遅々として進んでいないように見える。
ただ、表向きは、今回の事件は、私怨によって起こされた不幸な事件でした。
今後は、これまで見逃してきたカルト宗教と政治の関係を粛清します。
という「総括」で終わらされていくようだ。
凶弾に倒れた安倍元総理の「弔い方」で揉めているが、自分たちのリーダーの死に対する「総括」をこのような形で済ませようとする姿を見ると、あぁ、日本にもう「保守」はいないのだなと思う。
「保守」と「革新」は、「主意主義」と「主知主義」という言葉で区別して説明されることがある。
革新は、頭でこしらえた「理想」に邁進するが、保守は、従来の伝統や習慣を大事にする。
革新は、理知的に判断した善し悪し(「知」)を重視するが、保守は、体で感じる善し悪し(「意や情」)を優先する。
革新は「これからの価値観」に重きを置くが、保守は、体感的な「これまでの価値観」に目を向ける。
そうした「意」や「情」を大事にするのが保守派であり、だからこそ、彼らは、中国や韓国に対して強靭な姿勢を取った安倍元総理を応援したし、「アメリカを再び偉大な国にする」と豪語したトランプ元大統領を支持した。
「理屈」じゃなく、その「威勢の良さ」に、彼らは期待を込めたのだ。
そうした、「威勢のいい」姿が好きな保守派は、「理」より「情」を優先するような「浪花節」と相性がいいし、その慣習的な集団である「ファミリー」を大切にする姿勢は、ヤンキーやヤクザのあり方と親和性が高い。
保守系議員たちは、伝統的な家族像を大事にし、夫婦別姓に反対することで、「個人」よりも「集団」を、「個々の自由」よりも「ファミリーの一員である大切さ」を重視する。
だから、今回、安倍元総理に対する暴行が実行された際、「俺らの元トップ」であり「実質的・精神的なファミリーの頭」が殺されたことに対して激怒し、「敵討ち」をしようと立ち上がった議員がいなかったことに、私は驚いた。
普段、「ファミリー」を大事にしてきた人たちが、「ファミリーの頭」の玉を取られたにもかかわらず、なんの「敵討ち」にも動こうとしなかったのだ。
これは「ファミリー」単位で動いている世界では、沽券に関わる問題である。
メンツを潰され、誇りに傷をつけられながら、「しょうがない」で済ませる「ファミリー」など、この世界では生きてはいけない。
たとえ、「頭」を撃ったのが他所の「ファミリー」の者ではなく、私怨に駆られた一般市民だったとしても、「落とし前」をつけるのが仁義の世界に生きる者の宿命である。
もちろん、政治家はヤクザでもヤンキーでも暴走族でもない。
「敵討ち」や「落とし前」が通用する仁義の世界とも違う。
当然、ここでいう「敵討ち」とは比喩である。
しかし、どんな世界にも「情」があり、保守派とはそうした「情」や集団としての「仁」や「孝」を大切にしようとしてきた人たちである。
今回、その「情」が安倍元総理の周辺議員から見えてこなかったのは、私がニュースを見ていないからだろうか。
確かに、今回の犯人の主な動機がカルト宗教団体に対する報復にあったことで、リーダーを殺られたことに対する「落とし前」や「弔い」とは一体何なのかが曖昧になっただろう。
加えて、事件の根本を掘っていけばいくほど、「俺らのリーダー」の暗い部分に光を当てることになり、ひいては、自分たちの足元もぐらつかせてしまうことになる。
「頭」をやられたことは憤懣やるかたないが、ここは「頭」の生前の業績を汚さないためにも、我々の組織を危険にさらさないためにも、黙って葬儀だけを粛々と進めていくことにしよう。
そのように、「ファミリー」のメンバーたちは思ったのかもしれない。
しかし、もし、そうだとしたら、彼らに「保守」を名乗る資格はない。
「頭」を殺されて、その激情に体が突き動かされない人間なんて、「保守」とは最も遠い人間である。
私には、保守派を名乗る人たちが、「保身」のために口をつぐみ、事件を終わらせようとしているようにしかみえない。
「頭」が殺されたのに誰も「敵討ち」しようとしているように見えないという私の印象は、誰も「情」を表に出していないという私の不満なのかもしれない。
「敵討ち」や「弔い」行動は、「知」よりも「情」を優先するという点において、そもそもが幼稚なものである。
しかし、私は、その幼稚さを見たかったのかもしれない。
そして、知性があるはずの本当の政治家には、その幼稚な「情」だけでなく、誰かを「討つ」矢印を他者でなく自分自身に向けるという「知」的な行動を見せてほしかったのかもしれない。
「なぜ俺らの頭が死ななければいけなかったのか」という問いは、「でも、頭自身には落ち度はなかったんだろうか」という自分たちへの「問い」に結びつく。
「保守」が保守するのは、「これまでの因習的な価値観」、つまり、死者や先人が作り上げた価値観である。
自分たちが先人に恥ずかしくないような行動をしているかどうかは、自分たちが自身に問いかけるしかない。
つまり、保守は常に自分自身の行動を、先人のそれに照らしながら、チェックしなければならない。
その「問いかけ」の欠如が、今回の惨事の遠因ではないかと思う。
保守系議員の何人かは、事件後、殺されたリーダーの意志を継いでいく旨の発言していたが、その「我らに正義あり」というような自覚・反省のなさに、保守系議員の幼稚さを見る。
真の保守の矜持は、盲目的な威勢の良さに表れるのではなく、深い自己反省の元に、先人とのつながりを自覚している、その姿勢に表れるのだ。
リーダーが殺されても、脛にある傷が気になって、怒るでも反省するでもなく、口をつぐみ、ただ、党の蓑に隠れて、オフィシャルなイベント事だけを盛大にやろうとする政治家たちを「保守」とは呼べない。
保守という立場は、「過去を見つめる」という仕方で社会の重石になり、世間が、皆が、浮きだたないように警告する重要な社会の役割である。
そうした役割が失われつつあることは、社会にとって大きな損失である。
ただ、この損失はすでに何十年も生じていることで、私が感じるのが遅かったというだけなのかもしれない。