川崎で多くの児童の生命を奪った殺傷事件が起こった後、
「死にたいなら一人で死ねよ」とツイッターでコメントした人がいたことを受けて、
賛否両論が巻きおこった。
「そのとおりだ。子供を巻き込むな」という人たちがいる一方、
「その言葉は、他の引きこもっている人たちをより孤独にする」
と、継承を鳴らした人たちもいた。
ツイッターなどのSNSには、時間や場所や対象に制約がないので、
いつどこで誰に対して言った言葉なのかが、不明瞭だ。
犯行を犯した男に対して「死にたいなら一人で死ねよ」と直接言うことには、
誰も異論はないだろうが、
それがSNS上に残り、リツイートされ、多くの人の目に触れることで、
意図しない受け取り方をされる危険性は残る。
皆が議論していたのは「一人で死ね」というコメント内容の是非ではなく、
コメントを残す媒体に対する自覚の有無だったのだろうと思う。
そうした議論の中で、爆笑問題・太田光がテレビ番組で言ったコメントが、
多くの共感を呼んでいた。
太田光は、自身がMCを務める番組の中で、
事件について、自身の経験を交えてこう語った。
俺なんか(容疑者と)同じ50代ですけれど、高校生くらいの時に、
何も感動できなくなった時があったんですよ。物を食べても、味もしない。
そういう時に『これはこのまま死んでもいいな』っていうぐらいまで行くんだけど、
そうなっちゃうと、自分もそうなら人の命も大切には思えないよね。
だけど、その時に俺のきっかけだったけど、たまたま美術館行ってピカソの絵を見た時に、
急に感動が戻ってきたの。
何を見ても感動できなかったんだけど、ピカソが理解できたってわけじゃないんだけど、
その時の俺には『こんな自由でいいんだ表現って』っていうことで、
そこからいろんなことに感動して、いろんなものを好きになる。
好きになるってことは、それに気づけた自分を好きになるってことで、
それっていうのは、人でも文学でも映画でも何でもいいんだけど、
そういうことに心を動かされた自分て、捨てたもんじゃないなって思うと、
他の生きている生物や人間たちの命も、やっぱり捨てたもんじゃないって思える」
爆笑問題・太田光は、他のコメンテーターが事件の犯人を非難したり、
同じ犯行が繰り返されないための対応策を提案したりする中で、
一人、自分と犯人を重ね合わせて事件を語った。
それは、事件を、どこか遠くで起こったできごととして語るのではなく、
自分にも起こる可能性のあった個人的なできごととして語ったということ。
その、個人的な視点が、テレビを見ていた多くの人の心に届き、
共感を呼んだのだ。
スペインでピカソが自分の恋人をモチーフに描いた作品が、
遠く、日本の青年に生きる力を与えたように、
個人的に作られた作品は、時空を越えて、普遍的な価値を持つ。
たぶん、それが「表現」ということで、
個人が感じたことは、時間や空間を容易に超える。
ピカソの個人的な視点や感覚が爆笑問題・太田に伝わり、
太田が事件に関して個人的に感じたことも、テレビやスマホを通じで、視聴者に伝わった。
それは誰もが理解できる「一般的なこと」を表現したからではなく、
誰にも理解されないかもしれない「個人的な感情や体験」を表に出したからだ。
一般的なことは知識があれば語れるが、
普遍的なことは「個」からしか生まれない。
最近はインターネットやSNSのおかげで、誰もがコメンテーターになれるので、
こういった事件が起こると、
「保健所がもっと介入すべき」や「警察は相談窓口を増やすべき」などと、
犯行を事前に防げなかった社会システムの悪口や改善点を口にされる。
しかし、人は自殺相談室があるから自殺を思いとどまるわけでもないし、
役所に社会福祉課があるから引きこもりを止めるわけではない。
その必要性は存分にあるとしても、
自殺や引きこもりなどの問題は、どこまでいっても個人的なことであり、
サポートシステムが整っていようがいまいが、
社会の支援体制とはまったく関係なく、個人的な理由でひきこもりから脱したり、
個人的なきっかけでリストカットをやめたりする人はたくさんいる。
爆笑問題・太田がピカソに救われたように、つまづきから立ち直るきっかけは、
芸術作品だったり、何気なく眺めた虫の羽ばたきだったり、
コンビニ店員と交わした挨拶だったりする。
そのきっかけは、社会のシステムとは無関係の、
個人的な物語の中に入り込んでくる”なにか”なのだ。
社会のシステム側にいる人たちは、良いシステムを作ることに懸命になってもいいが、
社会の機能をどれだけよくしても、個人がハッピーになるわけではないことは、
誰もが頭に入れておくべきことだろう。
爆笑問題・太田光は、その後、この発言の反響について触れていなかったが、
講談師の神田松之丞は、太田の発言を
「ピカソだって。笑っちゃうねえ」と完全に小バカにしていた。
太田光の発言がここまで人々に共感されたのは、
普段、馬鹿なことをしたりおちゃらけてばかりいる太田が
急に真剣な顔を覗かせたからだが、
その真剣な顔は、誰かに小バカにされることで、
また、普段のおちゃらけた芸人の顔に戻っていく。
芸人が真剣になるのは、一瞬だけでいいのだ。
システムをどれだけ良くしても、人が幸せになるわけではないように、
社会的に正しいことを言ったからといって、それが人に届くわけではない。
真剣さを”ふざけ”で包むのも芸であり、
一瞬だけ”ふざけ”の奥にある真剣さを見せるのも芸である。
正しいことを言えば、人は良い方向に向かうわけではなく、
人はそれぞれ、物語の中で生きている。
だからこそ、いつ言うか、誰が言うか、どう言うかの、
「表現」の仕方が大切になってきている。