「もっと丁寧にやって」
掃除のやり方について妻に怒られている時、
親に怒られる子どもたちの気持ちがよくわかる。
「丁寧ってなにさ?」
自閉症の子には具体的な指示をしなければ困惑してしまうと言われるが、
それは彼らに限ったことではない。
どこからが丁寧なのかは人によるのに、
丁寧な人は、より丁寧じゃない人に対し、「丁寧にしろ」という。
「こちとら、十分気づかって丁寧にしたつもりなんですけどぉ」
「丁寧に」なんて適当な指示ではなく、
具体的になにをどのくらいやればいいか、
「丁寧に」指示してもらいたいものだ。
十分に丁寧な人は丁寧ということがわかっている。
がさつな人はどこからが丁寧かよくわからない。
十分に優しい人は優しいがなにかわかっている。
意識せずとも人に優しくできる人は、なにも言われずとも、勝手に優しい。
しかし優しくない人は、意識しなければ優しくなれない。
優しいがわからないのに、
「優しくしろ」といわれても、
それは、「ちゃんとやれ」と言われているのと同じで、
何をどうすればいいのかわからない。
子どもたちが大人に怒られているのを見ていると、
そのことをよく思う。
「なんでこんなことすんだ」「ちゃんとやれ」
そんなこと言われても、なにをどう正せばいいのかわからない。
「丁寧にやれ」とか「優しくしろ」とか、
「丁寧」がなにか、「優しい」がなにかわからない子どもにとっては、
バツだけをつけられて、後は放置されたような気分。
次、なにをどう改善すればマルがもらえるのか教えてくれよ、と思う。
肌のきれいな人がたいてい、スキンケアを大してしていないように、
勉強のできる子どもを持つ親がたいてい、子どもに「勉強しろ」と言わないように、
きれいな人やできる人は、たいてい何も意識していない。
意識しなくてもきれいだったりできたりするのだから、
努力するということがわからない。
肌のきれいな人は化粧水をさぼってもきれいだし、
勉強のできる人は、当たり前のように日々勉強しているのだから。
しかし、当たり前に「丁寧」ができない人や、
きれいにする努力を怠ると「きれい」を保てない人は、
当たり前にそれができないんだから、
怒る側の人は、その人が自分とは違うという前提を理解しないといけない。
そうでないと、むやみに怒っても改善がない。
「ちゃんとやって!」でできるなら、ちゃんとやっている。
ちゃんとがわからないから、ちゃんとできないのだ。
大学時代に住んでいた小さなアパートの一室、午前三時。
丑三つ時を過ぎた僕の家で、彼女がトイレにいこうとすると、
トイレの前の廊下で、本を持ったまま僕が床に突っ伏している。
本を持ったまま、トイレの前で寝落ち・・・。
こんなところで・・・、と思う彼女は、僕の服を掴み、
「ねえ、なんで、いっつも、こんなとこで寝るの!?」と揺らす。
半分意識が戻ってきた僕は、揺られながら、
「なんでって言われたって、僕だってわからない」と心の中でつぶやく。
布団に寝ることが当たり前の人が布団に寝るように、
トイレの前で寝ることを不思議に思わない人はトイレの前で寝るのだ。
それがおかしいなら、「なんで!?」と揺らす前に、
具体的な指示をしてほしい。
この場合、具体的な指示とは、
「布団の上で寝て」ではなく、
「12時以降、本は布団の上で読んで」
もしくは「トイレの前にも布団を敷いておけ」だろう。
指示は、具体的に限る。
誰だって、改善したい気持ちはあるのだからね。