「左利き」は「奇数」に似ている。
左利きの人の文字の書き方やボールの投げ方には、
奇数に潜む「不安定さ」と「違和感」がある。
右利きの「偶数」っぽさに比べると、
左利きの「奇数さ」は、シャープさが違う。
思想家の柳宗悦が言っていた。
「茶の美は奇数の美」だと。
茶の美しさである「わび」や「さび」には、
奇数のような、割り切れない不安定さと、
均衡を求めない、エッヂのかかり方がある。
侘びたものや欠けたもの、かすれたものを愛する茶人は、
茶の中に「平安」を求めない。
だから茶には、どこかしら「危うさ」がある。
美しいものには、裏に、棘が隠れている。
日本語は、どことなく「偶数」に似ている。
子音に母音がいつも対でくっついている日本語には、
ノルウェー語やフランス語やベトナム語に感じるような、
シャープさがない。
「KO・N・BA・N・WA(こんばんは)」にも、
「MA・N・JU(まんじゅう)」にも感じられない日本語のスタイリッシュさは、
外国からやってきた言葉のキレさえも、
「A・PPU・RU(Apple)」
「SU・TAH・BA・KKU・SU(Starbucks)」と、鈍磨させる。
子音と母音の二つに割り切れる「偶数的」な日本語は、
二本の足でどっしりと立つドラえもんやアトムのように、
重心が低く、安定した言葉。
日本語は、構造から「安定」を指向している。
「偶数」はバランサーだが、華がない。
逆に、「奇数」には美しさがあるが、安定性がない。
人はいくつの頃からか、自分の好きな数字を持っているが、
「偶数っぽい人」は偶数を好み、
「奇数っぽい人」は奇数を好むような気がする。
そして、世の中の良いコンビや良い夫婦と言われる人たちは、
ほとんどが、「偶数」と「奇数」の組み合わせなんじゃないかと、
思うときがある。