樹木希林さんが9月に亡くなった。
長年、女優としてカメラの前に立ち、
独特の存在感を示しつづけた役者だったので、
どのメディアも、その死を、特集を組んで報道していた。
希林さんは、演じ方や仕事への向き合い方だけでなく、夫婦関係も独特で、
旦那の内田裕也さんとは、40年以上も別居しつつ、
それでも夫婦関係を最後まで終わらせることなく、死別した。
その独特の彼女の考え方や生き様をメディアは称賛し、
一口に夫婦と言っても色々な夫婦の形があることを、
希林さんは改めて示したのだけれど、
希林さんを称賛したメディアは、
希林さんと裕也さんを持ち上げた手で、
すぐに別の夫婦の不倫問題をスクープしていた。
不倫、浮気、育児放棄、DV・・・。
社会的な通念が比較的通用しそうな事例であったとしても、
それぞれのケースには、個々別々の背景があり、
一般的なものさしだけで断罪してはいけない。
100組の夫婦がいれば、100通りの夫婦関係がある。
そのことを希林さんはその生き方でもって教えてくれたように思うが、
教わった側のほとんどは、希林さんと裕也さんを「特殊なカップル」として取扱い、
彼ら以外の夫婦や家族を、”一般的な夫婦”とひとくくりにして、
一般的なものさしで図ろうとする。
そういう了見の狭い見方が、この世界を狭くしていく。
今のようなSNS社会では、
希林さんのように自由闊達に生きて、
だれからもバッシングされないような存在になるまでには、
だいぶ長い道のりがあるような気がする。
ある意味、第一線から降りているような大御所でなければ、
Aと発言すればB側からバッシングを受けるし、
Bを養護すればC側からバッシングを受ける。
希林さんは30代の時、すでにおばあさん役をやっているような人だったので、
早めに世間のものさしから自分で降りたのかもしれない。
そんな希林さんは若い頃、裕也さんから離婚を突きつけられたことがあった。
離婚を申し出る夫に対して、あくまで別れないと言い張る希林さんは、
囲み取材で集まった記者たちに対して、こう言った。
「夫は世の中の汚いものをいっぱい持っている人。
その汚いものをかき分けてかき分けて、
やっと見えてきたきれいな鏡がそこにあって、
見ると、そこに世の中で一番醜い姿の私が映っていた。
そんなものを見せてくれる男はほかにいない」
夫婦とはある意味、鏡。
相手の姿は、自分自身だったりする。
解剖学者の養老先生は、日本には哲学をする素地があまりないということを言った後に、
ただ、夫婦関係の中で日本人は哲学をする、という旨の話をしていた。
相手の中にほんとうの自分を映す鏡があるなら、
夫婦喧嘩はある意味、自分との対話ということになる。
そこに、”一般的なものさし”が入り込む余地はない。
夫婦関係でも家族問題でも、
個々の関係には個々の事情があり、
当事者は個々の事情を知るだけに、自分のケースを「特殊なケース」だと言い張りたがるが、
部外者は個々の事情を知らないために、
簡単に、そこに「一般論」を当てはめたがる。
自分の知らない、よその夫婦や家庭に、一般的なものさしをあてて、
わかったような気になって断罪することだけはないようにしたいと、
樹木希林さんの特集を見ながら思う。