アジアの空港で、チベット仏教の坊さん達を見た。
えんじの袈裟を着た、円顔のおじさんたちの中に混じって、
数人の若い坊さん達が、下を向いて、スマホをいじっている。
このご時世、坊さんがスマホをいじっていても別に「けしからん」とは思わないけど、
修行に支障はきたさないのだろうかと、心配する。
スマホをいじっていない先輩坊さんに
「スマホは、修行に支障をきたさないんでしょうか?」と聞いたら、
先輩坊さんは、どう答えるだろうか。
「きたすね」
そう、答えるんじゃないかと想像する。
新しいメディアや新しいデバイスが生まれると、
大人は、それによる危険や害悪を懸念する。
「子どもの成長を妨げる諸悪の根源はテレビだ」と言われた時期もあったし、
「テレビではなく、ゲームだ」と言われたこともあった。
マンガばっか読んでるから学力が落ちると思う大人もいたし、
アニメばっか見てるから人付き合いが下手になると思う大人もいた。
今なら、インターネットやスマホが、格好の標的になっている。
でも、それらはすべて、
「最近の若者はけしからん」的な嘆きであって、
その嘆きは、遠く2400年前のソクラテスの時代から続く、
不変的な、おじさん達の嘆きともいえる。
事実、今は教養になっている小説も、明治時代には「有害図書」だった。
小説を読んでいる子どもを、
「こんなくだらないものを読みおってからに」と、親は怒っていたのだ。
今、小説を読んでいる小学生は褒められはしても、怒られることはない。
ほんの数十年まで有害図書扱いされていたマンガでさえも、
今では、教養の一つに数えられるくらいに、格が上がった。
インターネットやスマホがもたらす害悪も、
ただのおじさん的な嘆きで終わるものなのかもしれない。
しかし、スマホの中に入っている「有害図書」の量は半端ではない。
マンガもアニメもゲームも小説も、
思想書もエロ本もグルメサイトもSNSも、全部入っている。
修行僧の煩悩をくすぐる「有害図書」は、
すべてスマホの中に収められている。
それらを横目で見つつ、日々修行に励むのは、
何も誘惑がない状態で修行に励んでいた頃の、何倍も大変ではなかろうか。
現代を代表するベトナムの禅僧、ティック・ナット・ハン氏は、
修行僧は恵まれた環境の中で生活しているということをいうために、
「一番悟りやすいのが、寺の中。
一番悟りにくいのが、街の中」
と表現し、日常生活を送りながら悟ることの難しさを説いた。
街の中で悟るのは、容易なことではない。
だから、みな、寺の中へ入るのだ。
それなのに、寺の中にスマホを持ち込んでしまったら、
さぞ、悟りにくかろうと思う。
修行したいのに、新着メールの通知音がピコンピコン鳴っていたら、
修行どころではない。
やはり、スマホは立派な僧を潰しているんじゃないのか。
そういう、現代のおじさん的な嘆き。
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