今年も桜がよく咲いていた。
日本人は桜をこよなく愛しているが、
その美しさは日本人だけでなく外国人にも理解できるようで、
日本の花見スポットはそのまま、
外国人観光客にとっても、人気の観光名所になっている。
それは、日本の花見情報が海外に伝わっているということもあろうが、
外国でもすでに、桜の樹があちこちに植えられていて、
外国人が桜に親しむ機会が増えたことも、原因の一つだと思われる。
例えば、アメリカのワシントンDCでは、
「全米桜祭り」という催しが行われており、
桜を楽しむために、全米から150万人が集まっているという。
桜は、いまや、ワールドワイドの風物詩なのかもしれない。
ワシントンDCとは関係ないが、
桜といえば、アメリカの大統領ジョージ・ワシントンで、
ワシントンの桜の木の話は有名な逸話だ。
ワシントンは小さい頃、誤って、
父親が大事にしていた桜の木を傷つけてしまうのだが、
そこは、未来の大統領、
言い訳したいのをぐっと我慢して、正直に、「自分がやりました」と父親に告白した。
すると、父親は、
「その正直さは、千本の桜よりも価値がある」と、ワシントンを強く抱きしめたという、
ワシントンの人柄と父の優しさを表すエピソードが伝えられているのだが、
ジョージ・ワシントンが1700年代の人だということを鑑みると、
アメリカには、だいぶ前から桜が渡っていたということになり、
その歴史があれば、ワシントンDCの桜フェスタに150万人来るのも、なんだか頷ける。
そして、ワシントンDCともジョージ・ワシントンとも関係ない桜の話として、
西海岸の”ワシントン州”シアトルでも毎年、
桜が多くのシアトル民に親しまれているという事実があり、
ワシントン大学のキャンパス内には、盛大に咲くソメイヨシノに毎年、多くの人が集まり、
テレビでは、日本と同じように、毎日、キャンパス内の桜の開花状況が伝えられている。
ただ、日本人とアメリカ人では桜の楽しみ方が違うようで、
ワシントン大学の桜の周りでは、日本のように、
お酒を飲んだり、ブルーシートを敷いてどんちゃん騒ぎをしたりする人はおらず、
桜の写真を撮ったり、桜をバックに自分の写真を撮ったり、
みな、見るだけ(撮るだけ)に終始している。
彼らにとって桜は、自分の国にはない、
異国の文化香る、インスタスポットというところなのかもしれない。
そのワシントン大学の桜を見た後に日本に戻り、
東京は九段下・靖国神社の桜を見に行くと、
人々が、ビニールシートの上で、缶ビール片手に、桜を楽しんでいた。
「靖国神社」という、
ニュースの中で聞く、政治的に緊張させる言葉の響きからは遠く離れて、
そこかしこの地べたで、酒をあおって笑い転げている人たちの緩んだ姿は、
なんとも、「花見」として絵になるというか、堂に入っているというか、
あぁ、これが、長く桜に親しんできた人たちの姿かと、
ワシントンで見た花見客との違いを思った。
桜は日本人の生活に深く入り込んでいるので、
色々な楽しみ方や触れ方がある。
鉄道ファンに、「撮り鉄(写真撮るのが好きな人)」「乗り鉄(乗るのが好きな人)」
「スジ鉄(時刻表が好きな人)」などがいるように、
桜を、見て楽しんだり、見ずに酒を飲むだけだったり、
桜を歌に謳ったり、桜を料理に添えたり、色々いる。
その桜への距離の取り方のバリエーションが、文化の豊かさなんだろうなと思うし、
そのバリエーションは、長い時間をかけて作られてきたんだなと、
アメリカ人の花見を思い出しながら、思う。
最近は日本人も、SNSのためだけに、桜を「背景」として扱う人も多いのかもしれないが、
総じていうと、アメリカ人が、桜を、客体(きれいな樹)として見ているのに対し、
日本人は、桜を主体として見、自分と桜を同化させているところがあるように思える。
桜を眺めるだけでなく、自分のこころを桜に重ね合わせたり、
生活の中に桜を散りばめようとするする気持ち。
桜を利用するのではなく、自身が桜になっている感じ。
靖国神社の桜の下で、缶ビール片手に、アタリメを齧っている仕事帰りの女性たちは、
「桜を眺めている人間」というよりは、「桜の樹をカリカリ齧っているリス」のようで、
花見をしているというよりは、
彼女ら自身が、桜のある風景の一部として溶け込んでいるようだった。
そうやって、日本人は、それぞれが、桜のある風景の一部になり、
全体の一部となって、全体の「景」を作りあい、
誰かの目の中に、楽しでいる姿を映している。
そういう日本人の感覚は、海外の桜の見方とは違っているだろうから、
世界中に桜が広まり、日本以外でも当たり前に桜が見られるようになっても、
日本人にとっての桜や花見の重要性は変わらないのだと思う。
もしかしたらアジアの人の中には、同じような感覚が備わっているかもしれないから、
今後、花見の風景が国際的になってきたら、
それはそれで、新しい花見のバリエーションが、そこから生まれてくるかもしれない。