元号が「令和」に変わった。
新しい時代の到来だ。
しかも新元号「令和」のもとのなった万葉集の詩歌には、
「なにを始めるにも良い時期」という意味が含められているらしい。
希望的な名前。
「新しい朝が来た、希望の朝だ」
とラジオ体操が歌いだしそうなめでたい元号だ。
歓びに胸を開いて、青空を仰ぐ気持ちになる。
そんな令和が始まって1ヶ月、駅前の本屋さんには、
いろんな本や雑誌の表紙に「令和の」文字が踊っている。
みんな令和にあやかって、希望的に前に進みたいらしい。
その本屋の中のビジネス書コーナーを歩いていると、
平台に積みあげられた本の表紙が目に入る。
『平成で終わる人、令和で求められる人』というタイトル。
『平成で終わる人?』
『令和で求められる人?』
「区切り」ができると、こういういい回しもするのかと感心する。
あるきっかけで、時間に一本の線が引かれると、
線の前と後ろに、過去と未来ができる。
一方に新しい時代が広がり、
もう一方には、過ぎ去った時が横たわる。
「平成」が続いていた時には、「平成」は「昭和」に対する「新しいものの典型」だったが、
「令和」が始まると、「平成」は一気に過去のものになる。
そうすると、「新しい時代に乗り遅れるな」とか、
「過去にしがみつくな」という、過去を切り捨てる言い方が可能になる。
「新しい時代って、なんだか、めでてえなぁ」
そう、牧歌的に新しい時代を考える人たちの横で、
「新時代が到来した。うかうかしてると、取り残されるぞ」
と、脅迫的に前に進もうとする人たちがいる。
それはどちらが良いというわけでなく、
新しい時代に適応する人としない人がいるだけの話。
それに、元号が変わらずとも、時代は常に新しくなっている。
馬車が自動車に変わったように、
社会は、確実に、テクノロジーが導く方に進んでいくもので、
社会の変化についていけない人たちは、
馬車に乗り続けようとし、
社会の変化についていける人たちは、
人より早く自動車を買うのだ。
ただ、西洋の科学技術が最先端だった時代に、
夏目漱石は、うつろな目で西洋社会を見つめ、
日本人がこれからいかにいくべきか考え続けた末に、神経症になった。
その時彼が抱いた問いは、明治から大正、昭和、平成、令和と、
元号が4回変わった今でも、
私たち日本人の問題であり続けている。
元号が変わり、テクノロジーやグローバル化が進んでも、
解決しないままの問題はある。
時代が一本の線で区切られた時、
新しくあろうとする人がいれば、
なにも変わらないとする人がいる。
「不易」を唱える人と「流行」を叫ぶ人は、
どちらも時に必要で、
どちらも時に邪魔になる。