茶道に触れていた時、お茶の先生がよく言っていたことがある。
「これは、ただの稽古」
お茶は今や(というか江戸時代から)習い事になり下がっていて、
毎週、稽古に通うことだけ満足してしまう人ばかりだが、
お茶は、「教室」で「稽古」することを目的にしたものではない。
本番は「お茶会」であり、さらにいえば、
自分が主人となってお茶会を催すことだけが本番。
「教室」で稽古することは、その本番の一部分を切り取ったものだったり、
一部分を省略して簡易化したものだったりする。
部分部分の細かい作法は「稽古」で完璧に覚えることはできるが、
「稽古」によって、全体の大枠がみえなくなることも多い。
「稽古ばっかしてたら、いかん!」
そう言っていた先生の真意は、
「部分ばっかみてたら、いかん!」でもあると思って聞いていた。
「部分」ばかり見るせいで「全体」が見えなくなる。
そういう「木を見て森を見ず」的な話は、どの分野にもあることで、
学校で教える「英語」の授業でも、それはよく感じる。
もともと「英語」という大きなものをわかりやすく学ぶために、
「部分・部分」に小さく切っていったものが、
「単語」「文法」「リスニング」「熟語」「発音」だったりしたのに、
「部分」を完璧にしようと、目が近くなりすぎて、
「全体」をつかむ授業がほとんどなくなっている。
そして、「全体」をつかむ経験をする前に、
「部分」の細かさに嫌気がさして、
「英語」自体を嫌いになってしまう子どもも多い。
なんだか、ひどく、もったいない。
初心者が「全体」を把握するのは難しいことだが、
初心者ながら、「全体」に触れた時感じるのは、
「わかんなかったけど、面白かった」
という充実感だ。
初心者として手伝う、先生主催のお茶会も、
カタコトながら、身振り手振りで伝えようとする、外国人との会話も、そう。
まだ「部分」を理解していない者でも
「全体」に触れるとちゃんと、「面白い」と、感じる。
初心者であっても、経験者であっても、
練習よりも試合の方が面白いのは、当然だ。
練習より試合。
稽古より本番。
「部分」より「全体」だ。
「森」を見るためには、「木」を見なければいけないが、
「木」ばっかり見てたら、飽きてしまう。
「森」は大きくて、広い。
「森」を見れるようになるためには、時間がかかるのだ。
だからこそ、モチベーションの維持のために、
たまに「全体」に触れることは、とても大切なのだ。
コメント