最近になって、20年前に流行っていたような洋楽を聴くことがある。
まわりの子たちが大学生の時聴いてたようなやつだ。
いつも、人より気づくのが遅い。
年相応に気づくこともある。
最近になって、国学者の本居宣長を読む意味がわかってきた。
このままいけば、順調に40代で老子に興味をもって、
50代で西行、60代で空海を読み始めるだと思う。
そういう段階を踏んでいるものもある。
読売ジャイアンツの90年代を率いた藤田元監督は多趣味な人で、
色んな趣味の段階を経て、いきついた先が「石」だったという。
石は結構な人がいきつく趣味らしく、
なんとも言われない魅力があるらしいが、
今の僕にはさっぱりわからない。
でも、今後はわからない。
段階を踏めば、そのうち、石の魅力に気づくのかもしれない。
段階を踏まずにわかることもある。
先日、兵庫県の甲山に登ったが、
いろんな形のどんぐりが転がっていて、そのいくつかを持ち帰った。
どんぐりの魅力には、はやくから気付いていた。
どんぐりは作家たちの興味を惹くようで、いろんな本で題材になっており、
宮沢賢治も「どんぐりと山猫」」のなかで、
誰が一番偉いか言い争っているどんぐりたちにこんな言葉をかけている。
「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、
あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
宮沢賢治の有名な「春と修羅」という詩集は、こんな序で始まる。
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」
これから綴ることばが、「かげとひかり」の「心象スケッチ」だという賢治は、
記録されたこれらの「けしき」を、「ひとつの風物」だと言い、
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
と書く。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
彼が持っていた”世界”の感じ方は、
いくつか段階を踏めば、僕にもわかることだろうか。
段階を踏んでもなんだかわからなそうでもあるが、
わかるかどうかは、段階を踏んだあとにしかわからないだろう。
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