母、娘、おば

母方のおじ(叔父・伯父)の重要さを語ったのはレヴィ・ストロースだった。

レヴィ・ストロースは、二つの相関的な四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)から、どんな部族にも、「父と息子」と「母方のおじと息子」の関係が、対立的に表れることを見出した。
つまり、「父」と「息子」が親密なら、「母方のおじ」と「息子」は疎遠であり、「父」と「息子」が疎遠ならば、「母方のおじ」と「息子」は親密であるということである。
そして、「母方のおじ」と「父」が違う価値観を持ち、異なる教育を施すことによって、「息子」は複合的な教育によって、成長していく。
つまり、「息子」に対して、「Aはよくない」という「父」と、「Aでもいいんじゃない」という「おじ」の両方がいることで、「息子」はものを考えるきっかけを持ち、絶対視しがちな「父(もしくはおじ)」を客観視した上で、判断・行動することができるようになるということである。

それは、親族の「基本構造」なので、関係性としての説明は今も正しいのだろうが、現代は、交換物としての「女性」の「価値」も変化しているため、別の説明もほしいところである。
その説明がどういうものかはわからないが、レヴィ・ストロースが対象として見ていた部族において重要だった「父」や「おじ」は、今の日本社会の「親族」においては、主要メンバーとは見られていないことは確かである。

ここ数十年、「父」の家庭での影は薄くなったが、同時に、「(母方の)おじ」の影も薄くなった。
「おじ」の存在感は、家庭に確固とした「父」があってこそである。
世間一般的に確固たる「父」の役割があったからこそ、「おじ」がその役割を補完したり、行き過ぎた「父」とのバランスを取ったりしていたが、家庭での「父」の役割が薄くなった今、同時に、「おじ」の役割も消えてしまっている。

今、「息子」が「父」とのことで葛藤し、対決し、乗り越えていく機会を目にすることは少ない。
それに比べ、「母」と「娘」の葛藤がない家を見つけることはほとんど難しい。
どこの「娘」も「母(や母に類する人)」と葛藤している。
圧倒的に、今は、「母」と「娘」にまつわるストーリーが展開される時代なのである。

そうであるならば、今の時代、大事な役割を担っているのは、「おじ」ではなく、「おば」ではないか。
「娘」が否が応にも「母」から様々な影響を受けざるを得ない中で、「母」とのカウンターバランスを取ったり、「母」とは違うタイプの女性としてのロールモデルを「娘」に示すのは、「おば」の役目である。
しかも、その際の「おば」は、父方の叔母・伯母ではなく、母方の叔母・伯母(つまりは、「母」の姉や妹)である。
家庭の中で存在感の薄くなった「父」が口を出せない「娘」の問題に対し、「父」の姉や妹がしゃしゃり出てくることはまずなく、顔を出せるとしたら、家のボスである「母」のことをよく知り尽くし、「母」に意見できる母の姉や妹である。
(なので、この話は「構造」の話ではなく単なる表面上の「関係性」の話である)

幸か不幸か、現代の「娘」に一番影響を与えているのは「母」である。
その「母」の言動は、時に、「毒親」という言葉が示す通り、子どもの体の中に毒のように流れ込み、「娘」を思考停止にしたり、否定的な思考に導いたりする。
その「毒」を中和するのが、「おば」である。
「おば」は、(「おば」から見れば姉や妹である)「母」を小さい頃から見ているため、「母」の人間的な弱さも愚かさもつまらなさもだいたい知っている。
「母」の表も裏も、「毒」の部分も知っている「おば」が普段から「娘」に関わることで、「母」は知らずしらずのうちに子どもに「毒」を注入することに意識的になる。
かつて「おじ」の存在が「息子」に客観的に考える機会を与えたように、「おば」は「母」に自分自身を客観視する機会を与える。
それまで「父」、「母」、「おじ」、「祖父母×2」、「おせっかいな近所の人たち」、「世話し合う複数の兄弟姉妹」「面倒みてくれる近所の子ども」と、複数で行ってきた子どもへの育児・教育を、「母」一人で背負うのは無理がある。
「親族の基本構造」が強固に機能していない現代の子育てにおいて大切なのは、「母」一人が子どもを「抱える」ことではなく、「手放す」ことである。

そうした、よくも悪くも「娘」に多大な影響を与える「母」の「対立項」としての人物は、別に「おば」である必要はない。
それは、「父」でも「祖母」でも「母親の友達」でも「シェアハウスの同居人」でも、本当は誰でもいいはずである。
ただ、現代の家庭環境を考えた時、最もその役割を担えそうなのが「(母方の)おば」というだけである。

かつて、「男性」を縦軸として作られてきた日本の「イエ」の雰囲気や家風といったものは、現在、「女性」によって作られている。
家庭の雰囲気は、「母」や「祖母」「おば」によって作られる。
そして、それが家庭における規範・モデルとなり、その一部は、「娘」や「息子」に引き継がれていく。

現代は多様な価値観が存在する時代であるとも言われ、家庭や親族からの影響は以前より弱くなったとも言える。
しかし、同時に、今は、「関係」が簡単に切れない時代でもある。
「大人」になって成熟しても「母」との関係は切れず、結婚するからといって、「母」の価値観が及ばなくなるわけでもない。
そうした、ずっと続く同性関係の中で、娘は「毒」を除去したり、「呪い」を解いたりしなければならない。
それは、たとえ「母」が「毒親」でなくても、「娘」が自立していく過程でやらなければいけない通過儀礼である。
簡単にいうと、「親離れ・子離れ」である。
そのためには、「母」に意見できるような、「娘」に「母」を客観視させるような、「母」の「毒」を中和させるような、「対立項」としての「大人」が必要である。
それが「おば」もしくは「おばに類する人」である。

少子化により、子ども一人ひとりの「価値」が勝手に上がっている。
その中で、「母」は「娘」を自分のように扱い、庇護しようとする傾向にある。
しかし、もし子どもが「価値」あるものならば、一人よりも複数で守る方が安心である。
親は早晩、いなくなる。
そのためには、子どもを自分の支配下に置くことではなく、支配下から出すこと、つまり、「手放す」ことが必要になる。
それにはまず、子どもを「手放す」よりも、「母」自身が自分を「手放す」ことから始まるのだろう。

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