真正面

山道をくねくね登ったところにある嫁の実家の玄関の前に立つと、表札が掲げてあったが、その表札が玄関の「正面」というか「真ん中」に掲げてあることに新鮮な感慨を抱く。

現在新しく建てられた家のほとんどは、表札が玄関(ドア)の横だったり、門の横に掲げてあったりするし、そもそも、すでに、表札自体を出していない家も多いので、玄関の「正面」に掲げられた表札に、違和感というか、時間の逆のぼりを感じた。

以前は当たり前だった「正面」だが、今は相対する機会が極端に減った。
この国では、神棚や仏壇、神社や仏閣に向かって拝む時、空手や柔道や剣道の稽古で礼をする時、はたまた、全校集会で講堂(というか体育館)に生徒が集まる時、誰もが、「正面」にまっすぐに向かって立ったり座ったり頭を下げたりしてきた。

「正面」は、左右があっての正面なので、その対称性はおそらく神道が持つシンメトリー性からきているのだろうが、日本人の習俗に入り込んだその性質は、日本人に、「正面」「真ん中」という身体感覚を植え付けた。

物や人の立ち位置や向きが、ちょっと右に寄れていたり、左にずれていることを許さず、「ど真ん中」にあること、「真正面」を向いていることを求める文化。
その、身体をピタッと「正しい位置」にもってくることはある精神につながっていたため、世の中の習俗から、「正面」がなくなり、身体を通じた「正しい位置」が失われれば、精神の「正しい位置」も迷子になってしまう。

日本の学校の整列や軍隊の行進から想像できるように、歴史上、その「正しい位置」を強制的に植え付けたことが、社会や人々の行動に悪く作用したことも多々あっただろうが、現代の人々が「正しさ」を見失い、浮遊しているように見えるのは、そういう生活の中で「正しさ」を求める、一つ一つの習俗が消えていったこととも関係があるだろう。

対称性を重んじる日本の多くの文化では、「正しい位置」がはっきりと決められている。
たとえ、対称性が介入してこないような習俗であっても、決められた手順のある習俗や儀式は、「正しさ」を要求する。
その「正しさ」を踏まえ、「正しさ」に順ずることで、人々の「こころ」も同様に、「正しく」なっていく。
そうした「身体の正しさ」から「こころの正しさ」へと導くのが、この国が長らく採用してきたやり方であった。

個人情報の観点から、今後、ますます表札が玄関に掲げられることは少なくなっていくと予想される。
ただ、たとえ、玄関に掲げられるのが表札でなくても、例えば、しめ縄でも、クリスマスリースでも、「ビラお断り」のシールや『戦争反対」のポスターであっても、それを「真正面」に掲げるという行為自体が、あなたの「こころ」を安定させることにつながっているという可能性を考えることも時には必要なのかもしれない。

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