沈黙の中で座り続ける瞑想生活も遂に最終日になり、
午前中の瞑想をもって、「聖なる沈黙」の法が解かれた。
おしゃべりが解禁になると、
これまで10日間一緒にいながら一度も話したことない人達と、
それぞれ、この10日間の感想などを思い思いに話す。
最終日には、それまで預けておいた携帯電話と財布が返され、
団体に寄付(ダーナ)をする時間になる。
この10日間コースは基本的に無料で参加することができ、
最終日に寄付をすることが、参加者にとっては実質参加料となるのだが、
いくら払うかは考えどころだな、と参加前から思っていた。
「金額はお気持ちで」と言われても、
どうしてもお金の計算は、相場との兼ね合いを考えてしまう。
10日間の宿泊と食事代だけでも、普通はこのくらい支払うから、
そこに瞑想の指導料とバス停までの送迎料も入れると・・・、
うぅむ、このくらいの金額が相場かなぁとある程度の金額を考えていたのだが、
コースが進むにつれて、自分が抱えていた内面の問題がだんだんとクリアになり、
思考も明確になっていくに従って、
このコースに対するありがたみみたいな気持ちが湧き上がってきた。
いや、これ、考えてたよりもっと寄付してもいいな。
これは、もっとあげるに値するプログラムだな、と。
最終日、財布が手元に返され、寄付をしようとする直前、
食堂の壁に、団体の運営状況が掲示してあることに気づいた。
年間の収入と、支出と、参加人数と、寄付金額と・・・
あれ。
この数字から、平均寄付額計算できるやん。
参加者に知らせたいのか知らせたくないのか、
簡単な計算をすれば参加者の寄付金の平均額がわかるようになっており、
計算してみると、参加者の平均寄付額は、
なんと、自分が出そうとしていた金額の4分の1だった。
へ、平均って、こんなもんなんだ・・・。
もしかして、ぼく、出そうとしすぎなのかしら。
確かに相場ではなく(そもそも「瞑想コース」の相場ってなんだ)、
コース運営の必要経費から考えると、
食事は質素なものだし、宿泊施設は簡素なものだし、
人件費は、ほぼボランティアだからかからないし、
土地代は、山の中だから安いだろうし、
水道は、山から引いてきているし、
これって、あんまり経費かかってないんじゃ・・・。
だとしたら、平均くらいの寄付金でも、やっていけるのかしら。
そういえば、寄付をする前日、最終日の講話でも、
寄付(ダーナ)についての話があった。
ある金持ちの男が仏教に帰依し、巨大な土地をブッダに寄付した。
その男はお金や土地をブッダのためにたくさん差し出したが、
それよりも、彼自身が仏教施設へ赴き、
家から持ってきた肥沃な土を苗木の根本に撒いたことの方がよっぽど価値ある行為なのだと、
講話は教えていた。
つまりは、金額ではない。気持ちだと。
神社の境内で賽銭箱にお金を投げ入れる時、
その金額の多寡によって願い事が叶うかどうかが決まるわけではない。
(というか、神社は願い事を叶えてもらいにいくところではない)
持っている人は多く出してもいいし、
持っていない人はある分を出せばいい。
さらにいうと、持っている人は多くを出してもいいし出さなくてもいい。
「気持ちが問題だ」としたら、
持っている人が出さない選択肢も許される。
ジョン・レノンはビートルズ時代、多くの人が集まったコンサートで
「安い席の方は拍手をお願いします。
それ以外の方々は、宝石をジャラジャラさせてください」
と言ったらしい。
そういうことだ。
「”気持ち”が問題だ」ということは、
「金額にはこだわるな」ということ。
鳴らすのは、「手」でも「宝石」でもいいのだ。
だとすると寄付するのは、諭吉「1枚」でも「100枚」でもいい。
深く考えずに、財布を開いて、上を向いている諭吉を全部渡すことにして帰ろう。