「聖なる沈黙」を守っている参加者たちは、
当然のように、誰もコミュニケーションを取りあわないので、
仲良くなることもないが、同時に、特に問題を起こすこともなく、
平穏に集団生活を送っている。
誰も文句を言わないし、
不平不満を顔に出すこともない。
ただただ、皆が、淡々と日々を過ごす。
もし、こんな人達だけで構成された国があったらどうなるだろうと、ふと、想像する。
口を開かない人たちばかりの国。
こころに仏の教えを持って、
生活に必要な必要最低限のことだけ話し、
あとは「聖なる沈黙」を守っている社会。
意外と、そういう社会は、問題なく回るのかもしれない。
皆の根底には仏の心があるので、
「沈黙」を逆手にとって悪さをしようと考える人すら出てこない。
もし、出たとしても、
それらをうまく取り締まるシステムを作れば、
穏やかな「仏の国」が、この世にできあがるかもしれない。
ただ、そんな国があっても、一つだけ断言できることがある。
それは、絶対に、その国は繁栄しないということだ。
「聖なる沈黙」を守って行動している人たちは、
他人のことに構わないので、
全体を良くしていこうという発想がない。
(もちろん、本当の出家生活や、雲水さんたちの生活の中には、
「沈黙」と同時に「協同」があると思うが、
このコースで沈黙を守っている人たちにおいてはない)
食事中にブレーカーが落ちても、誰も電気をつけ直そうとはしない。
皆、暗闇の中で、むしゃむしゃ食事を続ける。
誰かが箸を落としても、誰も拾おうとしない。
皆、落とした人が拾えばいいと思っている。
ある朝ごはん時、トースターを使いたい僕は、
トースターの中にあった誰かのパンを皿に移して、自分のパンを焼きはじめた。
僕がその場を去った後に、自分のパンを取りに来た人(中国人)は、
トースターの中に自分のパンがなくておろおろしていた。
でも、誰もその人に「あなたのパンは皿の上にありますよ」とは言わない。
僕も言わない。
それは、「聖なる沈黙」を破る行為だからだ。
その人はおろおろしたあげく、新しいパンを生のまま口に入れていた。
沈黙を貫く社会は、効率が悪い。
効率をあげるためには、コミュニケーションの向上が不可欠だからだ。
「聖なる沈黙の国」では、皆が他人に気を使わなくて良い代わりに、
だれも自分のことを気にかけてくれない。
「聖なる沈黙」が解けた11日目の午前中、
施設を離れる前に、皆で協力・分担し、敷地内の掃除をした。
それまでに使用した全員分のマットやブランケットの湿気を、
水掃除機で順々に吸っていく。
僕ら、男性陣は、それまで10日間しゃべれなかった鬱憤からか、
まるで工場のように、息を合わせて、掃除作業をサクサクと進めた。
「もっとブランケットの端持った方が、時間短縮できるよ」
「裏と表、入れ替える時は、いち、にぃ、さんのタイミングで」
「ほら、次行くよ」
「さぁ、いち、に、さぁん!」
掃除する回数を重ねるごとにカイゼンを繰り返すぼくたちは、
どんどん効率を上げながら作業を進めていったが、
僕は、どう考えても、皆が下を向いて黙っていた日々よりも、
声を掛け合って共同作業しているこの時間の方が楽しかった。
「聖なる沈黙」の国には問題も大して起こらないだろうが、
活気もない。
活気のない世界なんてつまらない。
人の世界には活気が必要だ。
でも、待てよと、また立ち止まって考える。
バッタの世界に、活気ってあるかな。
カニの世界に、活気ってあるかな。
活気というのは、ゴリラとかニホンザルとか、
霊長類以降の、深く社会性を持った動物にだけあるような気がしないでもない。
(イルカがクエックエッ言ってんのは、あれ、活気かな。
ペンギンがみんなでペタペタ歩いてんのは、あれ、活気かな)
「修行者の生活に、活気なんていりません」
そう仏教者は言うのかもしれない。
でも、まだ10日しか瞑想してない人(ぼく)は、
人の世に活気はいるぜ、と思う。
なんせ、瞑想に入り込むと、人は異性のことを忘れてしまう。
11日目にみんなでブランケットを清掃している時、
10日ぶりに女性と話せることになった男たちは、
女性陣の元へ近づいていき、喜々として、掃除を手伝っていた。
活気がないと、人は異性に興味を失う。
人が異性に興味を失うと、人類は続いていかない。