絵みたいな国

 

先週ある街を歩いていたら、全然桜が目につかなかったので、
「あれ、もう散っちゃったのかなあ」と思っていたのだけど
週末に隣町を訪れると、どこもかしこも満開の桜だった。
県道も市庁舎も遊水地の周りにも、至る所で桜が咲き乱れ、
乱れ咲いている桜の周りでは、
たくさんの陽気な人たちが、どんちゃん騒ぎをしていた。

桜が咲いているのは、誰かが桜を植えたからであって、
桜を植えようとする人がいない街に、桜が咲いていないのは当然だ。
人が意思を持って植えた結果が各所の桜並木なのであって、
勝手に「自然と」、桜がニョキニョキ街に生えてきたわけではない。

日本の自然には、ほとんど人の手が入っていて、
手付かずの自然というのはないに等しいのだが、
西洋人は手付かずの自然こそ本物の自然だと考えている節がある。
その意味では、日本に「本物の自然」は、ほぼない。
深い山や森でさえ、日本の自然には人の手が入っているのだから、
まちの中の桜は、当然、過去にどこかの誰かが意図して植えたものなのだ。
色んな人が、「桜を植えよう!」と思った結果が、この春の風物詩。
そういう、一人ひとりの意識が集まって街全体の景観が作られていると思うと、
まちに住む人間の花鳥風月に対する感覚って、
けっこう大きな違いを生むんだなあと感じる。

欧米の人たちは、日本の都市はどこも看板と電線とネオン街で、
街としての統一感がまったくないと、
厳しい規制でもって古い街並を守っている自分たちと比べていうが、
日本人の、桜を始めとした「自然」に対する意識は、
欧米人の古い町並みに対する意識と同じようなものなんじゃないかと、
ふと思ったりもする。

欧米人は時に、日本の風景を「絵画的だ」と表現することがあり、
そのことが僕は、ずっとわからなかったけれど、
数年前に岐阜かどこかの川辺の桜を見た時に、
「あ、ここ、絵みたいだな」と、ぽろっと思った。
そう思った僕の目は、その時だけ外国人の目で、
その外国人の青い目で眺めて見てみると、
日本の「風景」が絵みたいなのは、日本の「自然」が絵みたいだからだ。
日本の自然が、外国のような、
人間とは調和できなそうな厳しい自然じゃなく、
人間が筆で描いたような、人為的な自然だから、風景が絵のように見えるのだ。
日本の「自然」は「人工」の対極に位置するものではなく、
「人工」と「(手付かずの)自然」の間の子なのだ。
そうやって、日本人は、自然まで含めて、街並みをつくっている。
多分、自腹を切って、せっせと桜を植えてきた人たちは、
街に、ガチャガチャした看板や電線やネオン街をお金を出して作った人たちだ。

想像でしかないけれど、それはたぶん、「桜のある風景」と「ネオン街」、
二種類の、違う美的センスを持っている人たちがいるわけではなく、

同じ人たちの中に、「絵画みたいな風景」と「ガチャガチャした風景」、
両方を生み出す、二面的な美的センスがあるのだと、思う。

 

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