子どもは物理的な線をよく引く。
ペンでもって、チョークでもって、靴のかかとでもって。
大人になると物理的な線を引くことは少なくなるが、心の中では子ども以上に線を引いている。
不安を軽減させるために。
自分を守るために。
線を引くことで、「こっち側」と「あっち側」を明確にわける。
わかりやすいのは「抽象的な対立の線」を引くことで、線のこっちとあっちで「敵」と「味方」に分けることは、私と他人との関係を明確にする。
また、その線引きを「時間軸」でやると、「今」と「それ以外」を分けることになる。
例えば、あれだ。
「勉強やんなきゃやんなきゃ」と思いつつ、テレビをだらだら見ていると、もう、とっくに予定していた勉強開始時間を過ぎていて、この時点で結構もう「積んでる」のだが、それでもテレビの前からは離れることはできなくて、「今、11時10分、ってことは、あと20分。11時半まではテレビ見てもOKということにしよう」と自分なりに決める。
今から20分後の11時30分に「線を引く」ことで、これからの20分は不安なくテレビに没頭できる時間とする。
11時30分に線を引くことは、第三者による決定事項のように、私を安定させる。
実は、もう既に、私は「積んでいる」んだけど、その「詰み具合」を今、できる限りの「最小限」に食い止めつつ、不安を軽減するための「線引き」。
もし、11時10分の段階で、焦ってしまい、急いで勉強を始めてしまうと、「しまった。テレビを見すぎてしまった」という、不安感と罪悪感が、勉強に集中させなくさせる。
実のところ、「テレビなんか見ずに、すぐに机につかなきゃいけない」ってのも、自分とか先生とか社会とか親とかが勝手に決めた「設定(時間)」でしかなく、そこに確かな必然性はないのだが、私達は、勝手に「罪悪感」を感じてしまう。
(同じような話で、深夜にドーナツやラーメン食べると、「背徳感」を感じるというのも、それは誰に対する「背徳」なのかよくわからない。ヨハネやパウロや孔子や空海が激怒するとでも、いうのだろうか。孔子は確かに怒りそうだけど)。
人を不安にする、その不安はぶわぁーと一気に広がる性質を持っているものだから、どこかで線を引いたほうがよい。
というか、僕らは勝手に頭の中で線を引けているからこそ、現実には、核爆弾が飛んでくる可能性や、路上でいきなり刺される可能性や、数年後にガンに侵されている可能性があるにもかかわらず、無駄な不安にさいなまれずに生きていられる。
その可能性に巻き込まれる自分と、今考えている自分とを別物として見ることができる。
線を引くことで、自分の心を安定させるってのは、生きる上ですごく大事なことなので、未来の心配事に煩わされず、「明日は明日の風が吹く」と考えることは大事な教訓。
更にいうと、聖書が、「明日のことは明日が心配する(Mathew 6:34)」って言ったのは、ほんと、その通りで、今不安に思うことがあると、明日以降もその不安に怯えるだろうと思うけれど、明日の心配は明日がやる。
繰り返すと、明日の心配は「明日の自分」がするのではなく、「明日」こそが心配するのであって、私たちは、その心配の中を泳げばよいし、溺れないように、「線引き」だけしておけばよい。
そのように、聖書が「明日のことは明日が心配する」と私たちを慰めるのは、命を与えてくれた偉大な神様が、明日の食べ物や寝床を用意してくれないことはないだろうという楽観視から来ているところもあるのだという。
命なんていう、大それたものをくれた神様が、明日を生き延びために必要な、パンやご飯やヒートテックや羽毛布団をくれないわけがない。
実際にはくれないこともあるかもしれないが、命までくれた神様が考えた末に渋ったヒートテックである。
それはそれでもらえないことには意味があるだろうと考えることは妥当だし、そうであれば、明日の心配を私がする必要はなく、明日の心配をするのは神様の責任なのだから、「頼むぜ、神様、いい球行ってる。バッチこーい」という話でもある。