蚤の市

「蚤の市」が立つ日が晴天であって、なにより。
世のほとんどの人がガラクタだと思うものを集めて見せて売っている人たちも、それを目当てに掘り出し物がないかなぁと集まってくる人たちも、世間ではなく自分自身で良いか悪いかの価値をつけたい人たちの集まりで、ナイス。

一つ一つ、店というかブースというか、出店スペースを回るのだけど、回れば回るぶん、欲しいものが増えていく。
あの黄色い目が光る猫の置物と、屋根の上に乗せるようの鍾馗さんと、キリスト像飾っているギリシャのオブジェと、平安時代のずる賢い商人みたいな木彫りの像は欲しい。
どの店になにがあったのか心に留めつつ、財布と相談しながら、なにを買うべきか考える。

だいたい目に留まるのは、棚に収まりそうな置物系なのだが、ふと、そこに、手にすっぽりと収まりそうな、乳白色の刷毛目茶碗が目に入る。
あ、いいな。
欲しい。いただこうかな。
いや、待て。これはお茶碗。
置物ではない。
お茶碗に手、出しちゃ、財布がいくつあったって足りはしない。
お茶碗ってほんとにピンきりで、「キリ」はほんとにキリだけど、「ピン」は国宝やら重文(重要文化財)からあって、欲しいと思うようなもんなんて、絶対「キリ」より「ピン」のほうが多いんだから、君子危うきに近寄らずで、最初から、お茶碗は選択肢に入れないに限る。
判断自体の拒否。
ゆえに、目の前のお茶碗が「ピン」か「キリ」かは確認すらすまい。
左様なら。

以前、茶道をやってた時にお茶を教えてくれてた先生が、ある茶碗を部屋の奥から出して、僕の前に置いたことがあった。
師、曰わく。
「これをあなたに、と思って」

「これをあなたに」といっても、別に譲ってくれるわけでもなく、「君に売ってあげよう」ということで、「いいものだから、買っておきなさい」という無言の親心だったのだろう。
茶道とは言葉にならないところを汲み取る文化である。
「え、もらえるんですか」などと、冗談でも口走ってはならない。
うやうやしく、「どのくらいのものですか」と尋ねると、
再び、師、曰わく
「10万円ほどです」

茶道において道具というのはとても重要な役割をするものだから、皆はお茶会でよい道具を見られたというだけで喜ぶし、そうした道具をいつかは持ってみたいもんだと思うもんらしいのだけど、僕は、物の所有に関して、滅法、興味がなかったので、
師に対(こた)えて曰く
「あ、大丈夫です」
と無下もない返事をしたのでした。

先生は、そのばっさりとした態度に結構あっけにとられていて、「そうですか」的な感じで、その茶碗を部屋の外に持ち帰ったんだけども、その先生の驚いた反応に僕は逆に驚いて、無下に断っちゃいけなかったかなと思わされ、誰もが良い道具を欲しがるというお茶の世界の常識、もしくは、出されたもんは受け取るというお茶の世界の常識を再確認させてもらったわけだけど、でも、まぁ、いらないもんはいらないし、仮にそれがどれほどいいもんだとしても、せめて、自分で選びたいというか、良いものか悪いものかは、自分で決めたいという気持ち。
それは、茶の席であっても、蚤の市であっても、どこでも同じという話で、箱書きも銘もなにも裏付けるものがないようなガラクタにお金を出している蚤の市のお客さんたちの清々しさにサムズアップ!

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