誰が子どもに「正しさ」を教えるのか(中)

【多様な「正しさ」の中で】
高校に限らず、中学校でも小学校でも、先生の権威はすでに低下しており、
小学校では、先生の指示に従わない子どもたちによる学級崩壊が問題になっているが、
子どもたちが先生の言うことを聞かなくなる一方で、
いまだに中学校や高校では、生活指導や服装検査、頭髪検査が行われている。

外国籍の子どもや、外国人と日本人とのミックスが増え、
髪の色や質が一様ではなくなった今、
今までのような頭髪検査は明らかに意味をなさなくなっているにもかかわらず、
学校は細かい生徒の外見を逐一チェックしなければならない。
それは、検査の基準を、これまでの”国内仕様”から”グローバル仕様”に変えれば、
解決する問題なのだろうか。

集団生活を営む上でのチェックや指導は必要だとしても、
先生は、子どものしつけを、これからも、細くし続ければいけないのだろうか。
日本人の一億総中流意識が崩れ、
様々な意見を持つ家庭が増えて、
子どもたちの進路もこれまでのような一様なものではなくなる中で、
学校はどこまで「これは正しい」「これは間違い」として、
「道徳」や「価値」や「しつけ」を、子どもたちに教えることができるのだろう。

学校が「多様性あるこれからの社会」を授業で教え、
「それぞれの個性」を生徒に対して認めようとすることは、
「正しさ」というものが一つではなく、多様にあることを認めることでもある。
「正しさ」が多様にあれば、
学校が一律に、「正しさ」を教えることはできない。
あれもこれも、「ある意味アリ」とすれば、
子どもに一つの「正しさ」を、しつけや道徳と称して押し付けることはできない。
それでは、「正しさ」は、子どもの親が家庭で教えるべきなのだろうか。
それとも、「正しさ」は、誰か一人が、意識的に教えるものではないのだろうか。

【キリスト教系学校の「道徳」】
私が通っていたアメリカの高校はプロテスタント系の学校で、
週に数回「宗教」の授業があったり、チャペルでの礼拝があったりと
多分に宗教が教育の中に入り込んでいた
(公立高校は、当然、そのような宗教色は入らない)。

そんな宗教色の強い学校では、
アメリカのどこかの都市で大きな災害が起こった時には、皆がチャペルに集まって祈りを捧げ、
生徒の中の一人が病気になった時には、皆で祈りを捧げ、寄付金を集める。
「祈り」が日常的に、授業と授業の合間に入るようなその学校では、
「授業」と同じくらい「宗教」が大事にされているので、
学校運営側トップの校長と同じくらいの権限を、
宗教側のトップである理事長が持っていた。
(理事長といっても、日本で言う「オーナー」ではない)

学校に、「宗教」というスタンスから生徒に「正しい生き方」を教える人が、
「教科を教える」先生とは別に存在しているために、
ほとんどの先生は、「生徒に教科を教える」だけの人であり、
「生徒に善悪を教える人」ではなかった。
普段から、生徒に対する生活指導のようなことにはかかわらずに、
学校内で間違った態度を取る生徒がいた場合などには、
その対処を、理事長をトップとする、
「正しい生き方」を教える人(「道徳・倫理」担当)に任せていた。

【日本の先生とアメリカの先生】
一般的に、アメリカの先生の地位は、日本に比べると低く、
日本のように、教師が「聖職」と言われるような職業とは見なされていない。
威厳や厳しさはなく、「特定の教科を教えてくれる人」という感じで、
日本の塾の先生に近い感じがあった。
金曜日になると、「やった!金曜日だぜ!」と、週末が来たのを本気で喜ぶ先生を見て、
「先生がそんなこと言っていいんだな」と
真面目な当時の私は、不思議な感覚だった。

アメリカは人口が多く、学校も、銃を腰に差した警察が常駐するようなマンモス校から
地域住民が経営に参加する小さなコミュニティ・スクールまであるのだが、
私が通っていた、比較的安定的な、小規模な私立高校にも、
当然、「不良」や「問題児」と呼ばれるような生徒たちはいて、
彼らは、朝から葉っぱを吸ってロレツが回らないままヘラヘラ笑っていたり、
授業中、先生から当てられても、無視して、トヨタのカタログを眺め続けたり、
先生を罵倒する言葉を、一番うしろの席から大声で言ったりしていたのだが、
彼らを注意する先生のやり方は、
明らかに、日本の先生のそれとは違っていた。

先生は、生徒が悪態をついた場合、何度か口頭で注意するのだが、
2、3度言っても言うことを聞かない場合は、
「もう授業を受けなくていい。理事長室に行きなさい」と、
生徒に退出を命じる。
そこで、大抵の生徒は言うことを聞くのだが(不良なのに素直!)、
それでも言うことを聞かない場合は、先生が理事長室に電話をし、
担当の人が生徒を理事長室に連れて行く。

理事長室に連れて行かれた生徒は、理事長からお説教を食らうのだが、
理事長というのは、プロテスタント(宗教側)の代表者で、
キリスト教の見地から、生徒に懇々と、お説教をする。
先生に対して反抗的な態度を取っていた生徒も、
理事長に対してはけっこう従順で、素直に理事長の話を聞いていた。

それは、理事長が完全に宗教側の人間(牧師さん)ではなく、
「聖」と「俗」の間で生きているような、
高校生からすれば、話のわかる「人格者」みたいな人だったからなのかもしれない。
生徒に対し、人としての「正しい行為」を説くのが宗教の世界にいる人で、
それを、「教科を教える人」とは違う立場の人がやっているというのは私にとって新鮮で、
授業に加えて、生徒への生活指導までしなくてはいけない日本の先生とは大変なのだなと、
その時思った。

日本の先生には、「教科を教えること」と
「生徒に(社会的な)善悪を教えること」の両方の役割があり、
それが日本の「強い世間」を作っている要因でもあるのだけれど、
皆が、集団就職していたような時代ならまだしも、
個々が異なる生き方をしていくような時代においては、
その両方をやっていくのは、難しいことではないかと思う。
生徒への「生活指導」は、今後、ますます多様化してくるのは間違いないのだし。

【理性的なアメリカの学校】
先生ではなく、宗教側の理事長が、生徒に「善悪」を教えるようなアメリカの私立学校では、
先生が生活指導をする必要がないので、
体罰のようなことはまず、起こらなかった。
先生には、生徒を指導をする権限も責任もないため、
ある生徒が、授業を邪魔していると判斷すれば、
「出ていきなさい」の一言で済んでしまう。
後は、宗教側の人にまかせておけばいい。

それはとても理性的な対処で、日本で教育を受けた者は誰でも驚くのだが、
そこは、先生と同じように生徒側も理性的な対応をしていて、
「出ていきなさい」と言われたら出ていくし、
「あなたに意見を言う権利はない」と言われたら、結構、簡単に黙るのだ。

その根底には、「ルールは守らなければいけない」という意識がお互いにあり、
「ルールで決められたことに従わない者は、相手にされない」という前提が共有されている。
アメリカ社会で最も重要視される考え方の一つは「フェア」ということであり、
「それはフェアではない」というのは、
立場が下の者であっても、声高に主張できる権利なのだ。

「不良」であっても、「フェア」なことには無闇に反抗できないし、
そこで反抗できないからこそ、先生への暴言や無視など、
「モラル」や「マナー」の部分で、悪態をつこうとする。
「不良」であっても、
その文化の中で、反抗として成立する部分と、成立しない部分を見極めることが大切なのだ。

だが、ルールを遵守するアメリカの学校にも負の側面があり、
ルールに即した運営をするばかりに、
簡単に生徒を、停学にしたり退学処分にしたりする。
そこが、義務教育でないにもかかわらず、簡単に高校が生徒を放り出さない日本との違いで、
日本は、生徒が進級できなかったり、学校にいるための要件を満たしていないとしても、
温情をかけて保護するし、生徒の事情を酌量してあげることが多い。

それが日本の暖かさなのだが、
学校運営が、常に、ルールや基準に基づいて判斷されていないということは、
そこに「フェアネス」がないということであり、
それが、生徒と先生の間に横たわる問題に、
理性的な言葉と態度でもって対処することを、難しくしている要因の一つでもある。
日本社会の「甘さ」は、教育において、暴力を誘発している。

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