『これはすいへいせん』谷川俊太郎・著 / tupera tupera・イラスト
童話を読むことで、自分の中の時間を変化させる
大人たちは、『これはすいへいせん』のように、何度も同じ文章が繰り返されるつみあげうたに、「展開の遅さ」を感じるが、子どもたちは、それを心地よいと感じる。
しかし、子どもたちも、学年が上がり、中学・高校と進むに従って、大人と同じように、文章の意味をすばやく掴む訓練を積んでいく。そして、次第に、その繰り返しに、「遅さ」や「退屈さ」を感じるようになる。
文章を要約し、作者の意図を理解する「情報処理」の訓練を繰り返すうちに、意味としての言葉の奥にある、言葉自体のリズムや質感を味わうこと(もしくは「言葉を通じて世界を味わうこと」)を忘れていく。
一般的に、文章(言葉)を正確に理解できる人は、情報処理能力が高く、頭がいいとみなされる。客観的にものごとを分析したり、他人とのコミュニケーションをスムーズに行うことができる人が多い。
しかし、言葉は、外にあるものを理解し、自分と他人をつなげるためのツールとして存在するわけではなく、それを通して、世界を感じるためのものでもある(さらにいうと、「言葉が世界そのものである」ともいえる)。
重複障害者のヘレン・ケラーが、水という言葉を知って”水”の存在を知ったように、言葉を通じて、私達は、生きているということを知る。それは、「自分と”世界”の関係を知る」ということでもあるし、「生きている実感を感じる」ということでもある。
絵画や詩や絵本から離れ、文章(言葉)を情報として読むことばかりやっていると、言葉をツールとしか見なくなってしまう。
「これは すいへいせん」
「これは すいへいせんから ながれてきた いえ」
「これは すいへいせんから ながれてきた いえで ひるねしていた おじいさんの ガブリエル」
童話を読んだり、詩を読んだり、絵を見たりする前に、大人たちは、仕事モードの急いた心を、童話用、詩用、絵画用に、チューニングしなければならない。
それは、自分のなかに流れる時間を変化させ、作品の時間に身を委ねるということ。童話や詩や絵に限らず、作品を味わう時にはいつでも、その作品に身を預けるということが必要なのだ。
「”自分が”理解する」「”自分が”判断する」と、ガチガチに手のひらの中に握りしめている「自分」を放ち、相手(作品)に開く。
仏教では、それを「放下著(ほうげじゃく)」と言い、自分を捨てること、手を開くことの大切さを教える。
自分が把握することを捨て、自分が理解することを捨て、何も握っていない両手を相手に開く。その時、初めて、目の前の作品が、自分の中に流れ込んでくる。
「これは すいへいせん」
「これは すいへいせんから ながれてきた いえ」
と、谷川さんの言葉のリズムが、自分の中に入ってくる時、仕事をしている時には忘れている時間の流れを思い出す。
その時、言葉によって、自分が感じる時間を変化させることができることを思い出し、仕事場で流れる時間だけが、唯一つの時間ではないことを思い出す。
たまに、大人が絵本を開く意味は、そういうところにある。